轟洋介は「ヤンキー」なのか(後編)


前編

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斎藤「血気盛んな若者たちがブイブイ言わせていられるのも学園という閉鎖された空間だからであって、一歩外に出たら過酷な現実が彼らを待っている。ヤンキー漫画というファンタジーを成立させるには、そういう閉ざされた空間を設定する必要があるということを(宮崎駿は)指摘していて、それはそのとおりだと思いますね」

『熱風─スタジオジブリの好奇心』スタジオジブリ

 

 


前編の最後で次は「轟洋介の精神性について」探ると述べたが、SEASON2から登場するもザム以降気配を消していた轟洋介と全日制は鬼邪高校初代番長村山良樹の成長のための噛ませ役としての存在意義が大きく、やはり村山との比較(compare)無しには語れない。しかし私がここで比較したいのは村山ではなくジャム男である。その前に轟洋介の物語が如何にして村山良樹のリフレインであったかを検討していくが、言われなくても解っているオタクの方々は飛ばして轟とジャム男の対比以降の話、それすら必要ないという方は「6ザワが僅かな出番で轟に与えたもの」以降を読んでいただきたい。

 

 

 

 


村山良樹のリフレインとしての轟洋介(と「かつての鬼邪高校」としての全日制)

作中の出来事についてはなるべくさっくり記述するに留めたい。

 

村山は荒行という「伝統」を経ることにより、番長として擁立された。荒行とは他の生徒からの拳を百発受けることであり、それを成さなければいくら強かろうが番長として認められることはなかった(村山の前に98発まで耐えた古屋は「番長」の座を射止めていない)。村山は「百発の拳に耐える」という他者とのコミュニケーション(≒拳、つながり)の上に立った番長である。この後コブラに負ける(「何が違えんだよ……」)が、村山は鬼邪高に来た当初の目的である「鬼邪高でてっぺん」に立つことを果たしてはいる。

 

轟は転入してクラスメイトを圧倒し、暫定アタマの辻と芝マンを倒すも「定時の村山」がいること、そして全日は定時に相手にされていないことを知る。村山をおびき出すため定時に不意打ちを仕掛けた轟は全日の生徒を従えてはいるが、彼は辻と芝マン以外からの拳を受けることもなければ与えることもしていない(劇中にそのような描写はない)(≒コミュニケーション、「つながり」の欠如)。しかし辻芝を倒した轟が全日で最も強いのは「事実」であり、村山に負ける(「なんでだよ……」)も「てめえが強えのは認めてやるよ」と、村山から実力へのお墨付きをもらう。だがそれは轟の本来の目的ではない。挑戦者である自分を倒し、鬼邪高のアタマであることを改めて証明した村山に強さを担保(保証)されても、村山への敗北という揺るぎない「事実」が轟を雁字搦めにする。「形だけのクズ」だと思っていた人間を狩れなかった轟の目的は果たされていない。

 

 

轟洋介の転身―被害者から加害者へ―

元々轟は「いじめられっ子」だった。轟洋介は「ヤンキー」以前に暴力行為をはたらく「不良少年」なのではないかと思い、不良少年に関する書籍を数冊読んでみた。そこで取り上げられているのは犯罪や虞犯少年であることが明るみになっている少年ばかりであり、轟のような表に出てこない、非行の対象が「ヤンキーという不良(少年)のみ」に限定される少年は調査対象に含まれていなかった。それならばと「いじめ」に関する資料をCiniiで軽く覗いて見ても、やはり対象となるのは「(主に同じ学校やフィールドに存在する)いじめっ子といじめられっ子」やその関係性であり、轟のような関係性を求めない一方的な暴力少年の話は(私の手では)見つけられなかった。


速水健朗は自著の中で、従来の「不良少年・少女」像についてこのように述べている。

不良少年・少女というのは、従来、学校・教師といった権威に対抗する者たちに与えられた名称だった。一方で、飲酒、喫煙、不純異性交遊、無免許による運転・暴走行為などといった、不良少年・少女たちの行為は、権威への反抗であるだけでなく、自分たちは子供ではないという精一杯の背伸びしたアピールでもある。(中略)この反抗には彼ら不良少年・少女特有の、早く成熟したいという願望が現われているとも言えるのだ。

ケータイ小説的。』速水健朗

 

轟が反抗・対抗を試みたのは権威や社会などという漠然としたものではない。目の前にいるクズどもだ。轟の「不良狩り」という行為だけに焦点を当てれば彼は非常に不良少年的だが、理不尽な要求をしてきたヤンキー(≒いじめっ子)に対するルサンチマンから始まっている轟は前述のとおり、そして前田も複数の雑誌の中でその語を用いているように「(元)いじめられっ子」の変質型という、旧来的な「不良少年研究」の網から抜け落ちてしまうタイプの不良少年である。


不良にやられるだけだった頃の轟は、日頃の鬱憤を晴らすかの如く携帯ゲーム機で格闘ゲームに勤しんでいる。なぜ格ゲーだったのか。それはハイローの世界に遍く横たわる「暴力」のわかりやすい表現・代替だろう。我々がスクリーンや液晶画面でHiGH&LOWを通して暴力シーンを見るように、轟は掌の中の世界で暴力を夢見る。

 

いわれもない暴力のせいで、われわれはその暴力から距離をおくことができる。暴力シーンが理由も何もなく、手当たり次第に示される。暴力に耽っているだけであり、その背後にはどんな正統性もありはしない。(中略)暴力のための暴力なのだ。(中略)主人公が格好いい限り、監督の好きなだけ暴力的で、殺人的であって構わないのだ。(中略)道徳的な正当性はまったく表現されておらずそこでは暴力は単なる遊びなのだ。グロテスクな形の暴力であり、それによって観客は内にたまった攻撃性を発散させ、これ以上はない暴力的な夢を見、現実の暴力の脅威から解き放たれるのだ。暴力漫画も同じ機能を持ち、その凶悪なシーンのグロテスクな絵を見ることで自分自身の夢想を浄化できるのだ。

『ヤクザの文化人類学―ウラから見た日本』ヤコブ・ラズ(高井宏子訳)

 

これは「ヤクザ映画」を通して見る「暴力」(とロマン)についてのラズの論述だが、この後には「だからといって我々が実際にヤクザになろう(=現実で暴力を行使しよう)と思うことはない」といった趣旨の記述もある。私も絶賛上映中の『孤狼の血LEVELⅡ』を見て興奮したが、ヤクザになろうとは微塵も思わなかった。99.9%の観客がそうだろう。我々が求めるのはあくまでもカタルシスのための、フィクションとして描かれるだけの暴力である。しかし轟は違った。カツアゲされるシーンと「汚いこと」という台詞からは、彼が実際の暴力と隣接する――それも行使「される」側の――存在であったことが推察できる。彼の内なる攻撃性はクズどもによって膨れ上がり、ゲームのキャラに仮託するだけで発散できるようなものではなくなってしまった。「やるしかねえだろ」――轟は拳を握ってこの世界で暴力を行使する。

 

 

村山良樹の誤算と「母性」

村山はタイマン後のモノローグの中ではっきりと「仲間(=つながり)」の語を挙げ、自分が変化したことを示すも「でもよお、仲間がいるだけじゃダメなんだよ。てめえが変わんなきゃ、どうやら世界も変わんねえみてえだわ。轟、そのうちお前にもわかるよ」と半ば一方的に未来の轟への理解あるいは成長を求める。轟が過去の自分のように見えている村山*1は、轟が自分と同じように「何か」を得ることを求める。ここには大きな誤算とグロテスクな構造がある。まず「誤算」でありながら村山が知らないのも当然のことだが、轟は既に自分を変えた(変わることを余儀なくされた)先にいる人間であり、それは轟がハイローの世界に飛び込む前から自分を変えることができる人間であることを意味してもいた。


元から腕っ節の強かった村山は「てっぺん獲れば何かが変わる」と思って鬼邪高に来た。すなわちはじめから一番になるための、自己肯定のために拳を振るってきた人間だった。轟は本来交わる筈のなかっただろうクズどもに理不尽な目に遭わされ続け、「このままだといつまで経っても何も変わらない」と不良へのルサンチマンから拳を振るうようになった人間だった。轟は既に己を奮い立たせており、やられる側から狩る側へと変わった後に鬼邪高へと足を踏み入れ、負ける。DoしてもChangeしてもその先に村山への敗北というDieが待っていた轟*2にこれ以上変われと、それも轟を負かした勝者の村山が一方的に願うのは、まあまあ酷な話かつなんとも言えないグロテスクさを内包している。村山が轟に送る目線には「自分の人生の「生きなおし」を子に求めるような、母性的同一化への欲望」が垣間見える(斎藤,2012*3)。「轟、そのうちお前にもわかるよ」という村山のモノローグは、その最たる現われであろう。


コブラに負けた村山は、山王のアタマであるコブラへの敗北を「受容」している。彼や山王に対する敵意(対抗意識)や劣等感も見えてこない。「夏休み」と言って鬼邪高からほんの一時的に離れた村山がメンターとして頼ったのはかつて自分を負かしたコブラその人であり、あまつさえザムのラストでは「俺鬼邪高やめたら山王入れてくんねぇかな?」などと宣う。ここには男性原理的な勝者と敗者、「教えるー教えられるという以上に、その原理のもとで父は息子を抑圧し、やがて成熟した息子によって父が象徴的に殺されることで獲得されるような」(斎藤,2012)関係性は見られない。ザワオでもコブラの招集を知った村山は「一番決めようぜ的な!?」と胸を躍らせるが、この時の村山からはSWORDの頭たちと勝負して誰がすべてを「所有」するかを決めるような血の気は見られない。どちらかというと「関係」のためのじゃれ合い的である。また村山は、役者である山田裕貴の考えでは轟がしっかりしてくれるなら自分は引退してもいいと思っていた節もあり、ますます母から子――それも同性への――「生きなおし」的願望を感じ取れる。


一方轟は村山に負けてからというものの、ザムを経てザワオで彼なりに考えた結果再び「お前倒さないとめんどくせえこと多いんだわ」と打倒村山を志向する。村山はお前と戦うつもりはこれからもないとあしらいダメ出しまで浴びせるが、「てっぺん」を目指し自分を負かした相手に再戦を挑む轟の考え方は非難されるようなものではない筈だ。轟は元々「不良狩り」という個人的な欲望に基づいた結果鬼邪高まで辿り着いた人間であり、さらに彼は「不敗」であることを超えて「てっぺん」を目指すようになる。そこには男性原理の発露としての「家族主義に抵抗する個人主義」があり、轟が抱える「抑圧する父」たる村山への確執も「成熟した息子」になろうとする彼にとっては教育的な機能を果たす筈だった。今度こそ村山を倒そうとした轟の個人主義的な姿勢はヤンキーの対極にあり(斎藤,2014)、村山は双方が「アタマ」である故に轟の個人主義を許さなかった。逆説的に言えば、村山は轟を「全日の頭」あるいは「自分の後継者」として認めていたことになる。

 

村山の誤算はこれだけではない。村山は「仲間がいるだけじゃダメ」と言ったが、そもそもこの時点の轟には鬼邪高校に対する帰属意識、わかりやすく言えば全日のことを「仲間」と思うに至っていない。地面に尻をつく轟は、全日どころか芝マンの手すら一度振り払っている。全日には定時のような荒行(「伝統」)の成立もなければ、色んなオタクが指摘してきたようにコミュニケーションが不足している。学校としてのカラー(イメージカラーと、集団としての特色)も持たず、ヤンキー未満の「不良少年」の巣窟でしかない全日はかつての、しかもファイトクラブ的な研鑽(≒拳、コミュニケーション)すら見られない鬼邪高校「のような」集団、否ヤンキー的な「集団」ですらなかった。「クールすぎる性格*4」故に辻と芝マン以外誰も下に付いてこなかった轟洋介が「強い」という理由だけでアタマとして立っている全日が凪のようでいられたのは、単純に出番が与えられなかったことを無視すれば、村山に対する轟のようなアクシデントが良くも悪くも発生しなかったからである。それはザワで証明される(念のため再度確認するが、ザワシリーズの撮影順は「ザワ本編→ザワオ(前日譚)→6ザワ(後日譚)」である)。

 

物語がザワオへと進んでも、轟の物語は村山のそれを踏襲するかの如くリフレインさせられる。八木高と揉めた全日生の「やられたらやり返す、それだけだろうが!」はSEASON1の村山のモノローグ「やられたらケジメはつける」、同じく全日生の「おい! お前全日のアタマだろうが!」の抗議の叫びは轟本人がザムで村山に言い放った「あんた、アタマやめろよ」とほぼ一致(「気合」の足りなさの指摘)する。放送室を乗っ取った泰清に取り合わない轟の印象的な台詞「じゃあ頭はお前らにやる」も、轟を適当にあしらった後の村山の「じゃあお前がやれよ」「関が頭でいいよ」と重なる点がある。泰清一派に卑怯な手を使った中越一派のモブは、同じく卑怯な手を使った轟の畳句のようでもあるが、しかし轟は「同じ土俵に相手を立たせるためのやり方は汚いですけど、土俵の上ではフェア*5」な人間なので微妙に異なる。ここではその後に教室でモブを叱る中越の「意味が違えんだよ!……やるなら拳使え」が、村山に敗れた轟へ定時生が送った「今度は鬼邪高らしくな、拳ひとつで来いよ!」に当てはまるだろう。

 

 

徹底的に村山の轍を歩む、あるいは歩まされ、村山からもダメ出しを食らう轟だが、裏を返せばこれでもかと言うほど多方面からアタマになるためのお膳立てをしてもらっているとも取れる。鬼邪高の外から来てアタマになった村山と同じく、鬼邪高の外から来てアタマになろうとしている轟はハイローから見事なまでのレールを示される。しかし村山のヤンキー的な母性と誤算は轟の性分と相俟って、およそ2年に亘り轟のただでさえカタい頭を余計に悩ませることとなる。村山と違い既に「変化」した先にいる轟は、その先に何を得てどうなるのか。

 


轟がわかっていなければ俺たちも理解できていないだろうことのジャム男くんによる解説

結論から話せば、ハイロー的な「ヤンキー」の魂を最も理解しているのはジャム男である。楓士雄がたまに使う「俺バカだから」的な台詞は、彼が生まれながらのヤンキーであるが故に言語化がやや苦手という知性的、学力的な「バカ」のことであり、その言語化を補っているのが(特にザワオでの)ジャム男だ。

 

鬼邪高へ入学したばかりのジャム男の外見に、ヤンキー的な特徴は見られない。轟同様ごく普通の学生的容姿である上に、クラスメイトにイジられ脅されながら両手でジャムパンを持つ様子は非常におどおどしている。かつての轟以上に弱々しい。しかしジャム男は鬼邪高へ転入ではなく「入学」しており、同じ団地出身の上級生である司を「俺は司一派ですからね」と慕う様子からも、たとえ不良校であっても鬼邪高校への入学は彼にとって自然な進路選択だったと考えられる。各々の目的のために「転入」してきた村山や轟とは大きく異なる。ジャム男は入学直後にもかかわらず辻と芝マンの存在は知っている(=同じ「地元」の人間)が、その上に立つ轟のことは知らない。「情報通のジャム男くん」も知らない存在が「轟洋介」なのだ(中越のことはジャム男の代わりに司が「五中の中越か」と口にする)。轟が知らなかった泰志と清史のことも、ジャム男は当然知っている。


司はジャム男以外の生徒からも今こそ「一派」の立ち上げをと担がれる存在だが、喧嘩の相棒である楓士雄の転校以降、そのやる気は地に落ちていた。一年以上前に楓士雄と設置したソファに腰掛け、自分の首を狙いに来た奴をとりあえず倒す日々。泰清の宣戦布告にも、「俺……鬼邪高辞めるわ」「俺の居場所はここにはない」と腑抜けたことを抜かして登校拒否する*6有様だ。

 

土手でひとり黄昏れる司の元を訪れたジャム男は昔話を交えながらそれとなく司に復帰を促すが、やさぐれ度が上限値を振り切った司は「ロクに喧嘩もできねえ奴が、楽しいとか言ってんじゃねえよ」「群れなきゃなんにもできねえのか」「自分の身は自分で守れ。それができねえから群れるんだろうが」と怒涛の辛辣な言葉を浴びせる。ジャム男が弱さ故に司という「他人」を求めているのではなく、ジャム男が司を「仲間」だと思っているから一緒に立ち上がろうと声をかけていることに気付けないほど、司は司で視野狭窄に陥っている。

 

 

「気合」や「絆」で乗り切るヤンキー的反知性主義

もう一人の視野狭窄人間――村山への執着ぶりをそう捉えられることもある轟は、ヤンキーや「アタマ」としての在り方を自分なりに理解しようとした結果、学術書のような分厚い書籍に頼る。要するに「知性」でありエクリチュールだ。しかもその書籍にはブッカー(ブックフィルム)が貼られておらず、轟は『クラウゼヴィッツ孫武』や『アタマのための君主論』をわざわざ購入した(≒「文化的に下位」や「貧困」ではない(詳しくは前編参照のこと))と推測できる。図書館の本ならばブッカーのおかげでブックカバーがたわんだりよれたりすることはないが、轟の本の上部にはヨレが見える。村山がアイマスク代わりにしていた『おしゃべり心理ゲーム』とは異なり、本の内容的にブックオフで都合よく入手したとも考え難い。轟はなんとなくや「感覚的」にではなく、自分で考えて書籍を手にしたと思われる。残念ながらそれは鬼邪高では鈍器にしかならない。


いくら考えてもどんどん荒れる全日に、轟はついに定時の教室を訪ね村山に再戦を申し込む。しかし上述のとおり村山に「これからもお前と喧嘩するつもりはねえけど」「だって今のお前つまんねーんだもん」とすげない態度を取られる。「生きのイイ(≒「気合」のある)子たち」と勝負したのと訊かれたから「格下には興味ねえ」と答えれば「違う違う違う! ほんとそういうとこだよお前の悪いとこ」と怒られてしまう。轟からすれば、村山は一度負かした相手(=格下の轟)の相手はしないと言った口で自分には格下の相手を「やること」と求めてくる。先述の母性云々を抜きにしても言っていることが矛盾しているのだから、轟の頭がこんがらがるのも致し方ない。ヤンキー的には論理的な整合性云々よりも、「気合」や独自の価値観で問題をどうにかしていくことが正しい道なのかもしれない。しかし「論理的構造がない会話」をヤンキー以外の人間は往々にして理解できない(スタジオジブリ,2012)。「揉めんのに理由なんかねえだろうが!」を理解できない轟が、村山のあべこべな理論(ですらないが)を理解できないのもまた当然のことであった。自分とはタイマンしないのにコブラの招集には「一番決めようぜ的な!?」と大はしゃぎで応じる村山の姿勢もまた、轟の神経を逆撫でする。


「じゃあココ(頭)で考えるんじゃなくて、鬼邪高らしく、コッチ(心ないしは拳)でモノ考えてみてもいいんじゃないの」という村山の発言は、「“理屈をこねていてもしょうがない”」「理論をかなぐり捨ててアツくなっていく」「感性を肯定するために知性を批判する」とまさに斎藤(2014)の指摘するヤンキー的な反知性主義を体現しており、それに対する轟の答えは劇中のとおり「村山ァ!!」である。そりゃあ滅茶苦茶なことを言われたのだ、語気だって本人(役者)の想像以上に荒くなる。

 

 

ジャム男に習うファッションという「武装

片ややさぐれ状態の司に言われたことを真正面から受け止めたジャム男(言わずもがなだが、いくらやさぐれていようが司が言ったことは間違いなく司が言ったことなのでジャム男にとっては否定する理由がない)は、「司さんの戻ってくる場所」を守るために立ち上がる。ジャム男が最初にしたこと、それはまさかのパンチパーマである。


前編でヤンキーのファッション性についても触れたように、ジャム男はまず外見のいかつさや派手さを目指し、ご丁寧に学ランの前を開けシャツの裾も出すことで、自らの身体にヤンキー性を取り入れた。ラズ(1996)はヤクザの身体性や彼らが纏う、あるいは纏おうとするイメージから、独自の自己呈示論を述べている。

 

自己の呈示は、内面の自己や内にある実質を外に向かって表現したものではない。(中略)自己が先にあり、その所産として自己呈示があるのではない。それどころか、呈示がその自己を決定する要因であるかもしれないのである。つまり自己がパフォーマンスによって形作られるのである。

『ヤクザの文化人類学―ウラから見た日本』ヤコブ・ラズ(高井宏子訳)

 

ジャム男は「ロクに喧嘩もできねえ」と指摘された腕力の強化よりも先に、外見による「武装」から整えた。それは弱い自分への「気合」の装填でもあり、「一派」という「仲間」への明確な(見て判る)帰属意識の表明でもある。パンチパーマや着衣の乱し、さらにはザワ本編での派手な柄シャツが「ヤンキー」としてのジャム男をつくりあげ、周囲の人間へも彼が「ヤンキー」であると(自己)呈示する。これは轟とは真逆の思考・志向だ。そもそも轟には帰属先もなく、「ヤンキー的なものの総体」を憎悪する側の人間なのでヤンキー的な外見をする必要性も薄い。だが舐められないための必要最低限の「武装」すら纏わない轟の魂には、ギャルが言うところの「アゲ」の魂が備わっていない。轟の服装には「気合」が入っていないが、ジャム男のパンチパーマには「気合」が入っている。いきなりパンチパーマにしてきたジャム男は「その頭どうした」などと指を差されからかわれ、また視聴者も困惑の混じった笑いを浮かべたかもしれない。だがジャム男が取った行動は、見事なまでに「ヤンキー」の核心を突いている。


反対に轟が「装う」シーンもある。いきなり放送室にやってきた村山を前に、トレーニング中だった轟は脱いでいた学ランを羽織りしまっていた眼鏡をかける。これも村山と対峙するための「武装」や「気合」と考えられる。しかし轟が本当に村山と対峙する、すなわちタイマンする時に彼は眼鏡を外すのだ。この時の轟の行動は「気合」や「アゲ」よりも、村山に対する「平常心」の装い、別に動揺とかしてないし至って通常運転ですけど、といったような、「プライドやナルシシズム」に基づいた「自分を守るための殻」ではないかと私は考えている。


パンチパーマのジャム男は、司の帰還まで彼の代わりに自分を担いでくれないか、了承できないならタイマン張ってくれないか、と司を慕う生徒たち(ジャム男にとっては上級生にあたる)に懇願するも断られる。援軍要請に失敗したジャム男は、それでも司のために独り屋上へ向かい泰清一派に喧嘩を売る。はじめは笑っていた泰志もジャム男の意思が見掛け倒しではなさそうだと感じたのかソファから立ち、ジャム男も泰志に渾身の一発をお見舞いする。おそらく泰志はここでジャム男の「気合」を買ったから――無論それは外見によるものではない――、一種の礼儀として鉄パイプを振り上げるまで相手をしたのではないだろうか。


泰志がトドメとばかりに鉄パイプを振り下ろそうとした瞬間、司を慕う生徒たちが「俺らの仲間」であるジャム男の元へ加勢に来る。ジャム男が司への熱い思いを吐露する一連のシーンも、ジャム男がパンチパーマでなければ説得力、否「論理的思考」に頼らないヤンキーたちへの訴求力に欠けただろう。下手をすれば舐められるどころか相手にもされず終わりだ。パンチパーマにするも、タイマンを依頼したジャム男は「そんな弱い者イジメみたいな真似できっかよ!」と吐き捨てられてしまう(が、これはジャム男に対する仲間意識があったからこそ、力の差が歴然の人間を相手にできるか、と思って放った言葉なのではないかと思う。ジャム男の喧嘩を買おうとした生徒もいた)。だからこそジャム男がパンチパーマにしなければ、彼らが加勢することへの(視聴者に対する)説得力に欠けてしまう。ヤンキーは「知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずる」(斎藤,2014)のだ、ジャム男のパンチパーマは必要な儀式だった。

 


ジャム男による「ヤンキー魂の模範解答」

司が偶然遭った村山に「アタマってなんだ」と問う場面などを経て、ボロ雑巾のようになりながらも泰清一派を追い払ったジャム男一派(仮)の元へ司が駆け寄る。ここのジャム男の言葉がザワ、あるいはハイローのすべてを物語っている。

 

「俺のために、みんなが助けに来てくれたんスよ。今俺、死ぬほど痛いスけど、超嬉しいんです。喧嘩って、勝ったってお金もらえるわけじゃないし、痛いだけだけど、でも、この痛みとか、勝った時の名誉って、今しか味わえないんスよ。それを今みんなで味わってる。それがサイッコーに嬉しいんです」


ここまで見事な模範解答があるだろうか。みんなという「仲間」、喧嘩によって得られるものは何もなくとも痛みや勝った時の名誉は仲間と味わうものだ。過去の村山が「んなもんねーよ」と言った「名誉」だって実はちゃんと有る、仲間と一緒に感じられることをジャム男は教えてくれた。村山が轟とのタイマンを経てやっと気付いた「仲間と見るもん」をジャム男も知り、バカでもわかる書き言葉(エクリチュール)で表現している。


ジャム男の模範解答の中には、轟が歪んでしまった原因のひとつまでご丁寧に含まれている。轟がされたのは「勝ったってお金もらえるわけじゃない」喧嘩ではなく、勝てなければカツアゲ(恐喝)されるイジメだった。その上、ジャム男が基晃にいじめられた時のように「助けに来てくれ」る仲間もいなかった。楓士雄たちというヤンキーに囲まれて育ったジャム男は幼い頃からヤンキーとしての素質が密かに育まれ、これまでヤンキーとの接触が無かっただろう轟は「ヤンキー」の何たるかを知らずに肉体的、それも圧倒的な強さのみを獲得した。そして彼らを理解するために、海猫沢の言うところの「ヤンキーと相性が悪いアカデミックな本」を手にしてしまう(斎藤,2014)。ヤンキーを「知性」でもって紐解こうとした轟は村山に指し示された楓士雄を見るよりも、ジャム男の発言を聞いた方が手っ取り早くヤンキーや鬼邪高生の何たるかを理解できた可能性がある。まさに灯台下暗し、自ら鬼邪高校という不良の巣窟へ「入学」してきたジャム男はヤンキーの遺伝子を持つ男、それもヤンキーとなった彼は感情を言語化パロールエクリチュールへと変換)できる稀有なヤンキーだったのだ。


しかしジャム男の存在を知っているかすら定かではない轟は、他の全日生共々村山からのお説教を食らう。最後の「わかった? 轟ちゃん」の一言が、村山の思惑にあるかはさておき結果として全日のアタマとして自分を立ててくれていることにも、きっと気付いてはいないだろう。轟の目前に立ち塞がるのは村山への敗北という「事実」だ。

 

 


閑話:轟洋介が読むべきだった本は

出自がヤンキーではない轟は孫武だの君主論だのやたら分厚い書籍を手にしていたが、村山が言うところの「リーダー」としての在り方がそんな堅っ苦しい教養の本から学べる訳がなかった。じゃあ轟はヤンキーの自伝でも読めばよかったのかと言えば、却って彼らが自分とは違う人種であることを思い知るだけというオチも有り得る。ヤンキーの実話主義は、実話的*7だからこそ轟にとっては自分との差異の確認になりかねない。ならばフィクションである。それもガキでもわかるフィクションだ。

 

 

こんなにわかりやすいタイトルの小説があろうか。しかも轟洋介はくちぶえが吹ける(全日の)番長だ。無論作中の番長がくちぶえを吹くのは、誰かを煽るためなどではない。


物語は、主人公のツヨシが昔を回想するところから始まる。ツヨシが小学四年生に上がる前の春休みに、町で男子にも女子にも見えるやんちゃな子を見かけたと噂が立つ。その子と最悪の邂逅をしてしまったツヨシのクラスに、「川村真琴です。わたしの夢は、この学校の番長になることです」と彼女が転校してくる。くちぶえ番長とは彼女のことだ。

パパもいつか言っていた。「いいか、ツヨシ。番長っていうのはケンカが強いだけじゃだめなんだ。誰かが困ってたら、それをしっかり助けてあげられるのが、いい番長なんだぞ」

くちぶえ番長』重松清

ツヨシに「番長」像を言葉にして提示するのはツヨシのパパだが、それを具体例としてマコトが実行していく。下級生を狙ういじめっ子を成敗し、カーストトップの女子こと「おツボネさま」たちに目を付けられてしまった運動の苦手な女子に手を差し伸べる。マコトは徹底して自分の思う「番長のやり方」を貫く。「番長ってのはケンカするんでしょ? ケンカが強いから番長なんでしょ?」とはマコトが自分の意に反する行動ばかりするのが癇に障った「おツボネさま」の発言だが、「番長」や「ヤンキー」の文脈に生きていない人間の「番長」観も、登場人物がしっかり説明してくれる。おツボネさまは「屁理屈が大の得意だ」とツヨシから評されるが、これは先述の「反知性主義」的な嫌悪感ではなく、彼女は本当にただの小学生らしい屁理屈を捏ねているだけだ。


私が初めてこの小説を読んだのは半年ほど前で、その時にも「轟洋介が読むべきだったのは」とブログに書き残そうかと考えた。長文をしたためるにあたってヤンキーに関するあらゆる書籍を読み、最後に改めてこの本を読み直したが、最初に読んだ時とは異なり、如何にこの作品が「ヤンキー」の的を射た作品であるかを実感させられた。マコトが引っ越してきた町は、今は亡き父がツヨシの父とともに通っていた小学校のある土地であり、これだけで「描かれない父親(父性原理)」と「ジモト志向」が見えてくる。さらにマコトは授業が終わるとすぐに帰宅し、働く母親の代わりに祖母の介護を手伝う。大変な時は料理もつくる。いくら運動が得意でも、放課後に同級生とサッカーをしたり遊んだりすることはできない。マコトは今話題のヤングケアラー、つまり「(文化的に)貧困」の中へ身を置かざるを得ない児童であった。

「マコトちゃん、番長になりたいんだって?」
「はいっ」とマコトは胸を張って答えた。
「いいぞ、元気があって。おじさんとヒロちゃん(筆者注:ツヨシの父とマコトの父)も、番長になりたかったんだ。弱いものいじめをするんじゃなくて、弱きを助け強きをくじく番長にあこがれてたんだ」
「わたしもそうです。それが、お父さんの遺言だったから」

同上からの引用

マコトが「番長」を目指すのも父の遺言、つまり本当の「生き直し」である。主人公たちが小学生という児童だからか「旧来的な男女間に基づく性役割」なんかは描かれないが、マコトがここまで色んなことを背負いながら「番長」を目指す人間なのは単なる偶然ではないだろう。流石『エイジ』を書いた重松清だと舌を巻かずにはいられない。


ハイローや鬼邪高のオタクが喜びそうなポイントでは、ツヨシとマコトがマコトの父の形見の鍵で屋上(≒てっぺん)から「サイコーに見晴らしがいい」景色を見たり、マコトが時折「あっかんべえ」をしたり、またマコトが最後にどうなるかは(時系列的には逆だが)楓士雄と同じである。ネタバレになるため明言は避けるが、6ザワ的な要素も若干含まれている。


フィクションだからこそ轟に薦めたが、この話ははじめに書いたとおり「主人公のツヨシが昔を回想する」形式をとっている。つまり「実話的」であり、小説を「実話じゃない」からと敬遠しがちなヤンキーたちにも取っつき易い。最後に再び「現在(≒実際)の」主人公の語りが入り、現在のマコトがどうなっているかは「(前略)なあ、やっぱり、マコトはおばさんになるんじゃなくて小学四年生のままのほうがいいだろ?」と「番長(≒ヤンキー的な存在)」の「ファンタジー性」までを担保する。この手腕は見事だとしか言いようがない。


プロローグを読ませて1話まで引き込めば、作り話を厭うヤンキーだって読み進められるだろう。おまけにこれは児童書なのだ、小難しい文章など一行も無い。どうせロクな使われ方をしていない鬼邪高の学費の使いどころはここにある。鬼邪高は今すぐ各教室に一冊ずつ『くちぶえ番長』を置け。大事な台詞に蛍光ペンでも引いておけば、楓士雄も清史も読めるだろう。


もし轟がこの本を読んでくれたなら、その時に改めて問いたい。お前が目指しているものは「番長」だったのか?、と。

 

 


言語化しない辻と芝マン

閑話休題。ここまでをまとめると、轟洋介は「ヤンキーとは言い難い」人物である。辻と芝マンが全日モブに「お前ら、なんで轟とつるんでるんだ」と不審の目を向けられるのも無理はないように思えてくる。芝マンも「俺たちってなんで轟の下についてるんだっけ」と疑問を抱くが、轟のことを回想して「(強い)ってだけじゃねえよな」と自ら答えに辿り着く。隣にいる辻も「……ああ」と同意を示す。初期にあったテレパシー設定がなくなっても*8二人は交信したかのように会話を完結させるので、視聴者にはふんわりとした何か(=「感情」的なもの)しか伝わらない。なので物語を観測する立場から、彼らが思っている「だろう」理由を言語的に述べさせていただく。


辻と芝マンは全日の中で唯一轟の拳を受けた存在である。自分たちに勝ったところでどの道定時には敵わないと嘆息する二人に、轟は「じゃあその腐った眼を潰してやる」と打倒定時どころか、「俺が、SWORDのてっぺんを獲んだよ」と豪語する。個人的にはこの時点の轟に対して「目標のすり替え」が発生している(不良狩り→その頂点(てっぺん)に君臨する)ことを不安視してしまうのだが、役者に言わせれば「表に出さないだけで、実は赤い炎を常に心の中に持っている人間だろう*9」という具合に、轟が内に「気合」を秘めた人物であることを辻芝の二人は知っている。村山に負けたとはいえ、自分たちが無理だと決め込んでいた下剋上を一歩手前まで果たしたのだ。その後も轟はSWORDないしは鬼邪高の危機を察して「あんた、アタマやめろよ」と村山に発破(=「気合」)をかけたり、定時という「仲間」を連れてダンプを動かす「勢い」を持っている。なんだかんだでやられた全日生の代わりに八木高へのお礼参りもする轟は、辻と芝マンの予想や期待を裏切らない男なのだ。先述の『くちぶえ番長』は「気合」の重要性を説かないが(そこはやはり「知性」だからだろうか)、轟には既に「気合」が備わっているので何の問題もない。「俺たちはお前についてく」とは八木高前で三人が顔を合わせた時の、芝マンの音のない台詞を口の動きから予想した言葉である。たとえ他の人間が轟をアタマに相応しくないのではと懸念しようが、彼の活躍を知っている辻と芝マンは轟についてく。


轟が村山のリフレイン的な物語を歩むなら、辻芝の心境を代弁していると考えられる台詞もある。誰が強いかで荒れる全日を過去の自分たちのようで「羨ましい」と、ベッドの上で不貞腐れる村山を励ます関の台詞だ。

「村山さんが百人の荒行で番長になって、山王のコブラとタイマン張って、鬼邪高背負ってる村山さんの姿を見て、俺たちはついていこうって決めたんス」


轟の活躍を、辻と芝マン以外の全日生は知らない。情報通のジャム男くんですら、八木高の一件を知るとすればしばらく経ってから――それこそ時系列的には撮影と同じくザワの後――になるだろう。

 

 

 

純正ヤンキー花岡楓士雄との接触で得たもの

ようやく楓士雄のお出ましだ。廊下での遭遇の後、村山による召集で再び楓士雄の存在を確認した轟は、村山から「お前にはないもの、あいつは持ってるかもな」と楓士雄を提示される。ザワの主人公ということもあって楓士雄の格が上がったようにも捉えられるが、「あ、ムラッチ」と村山を呼び止めた楓士雄のタイマンというおねだりは果たされない。それが許されるのは「やんのね、結果」の轟だけである。


全日では轟が怪我をしている間に泰志が夜襲に遭い、中・中一派は何者かから鬼邪高宛の決闘状を押し付けられる。泰志の様子を聞くだけのつもりだったのか、続々と集まる生徒に驚く司に楓士雄は「俺が呼んだ」と吐く。「仲間がこんだけやられてんだ。……行くだろ!?」「これはお前(泰清)だけの問題じゃねぇ。鬼邪高の問題だ」 泰志だけならいざ知らず、実際に喧嘩を売られたのは鬼邪高(決闘状)なので、楓士雄のヤンキー的集団主義に基づくこの判断や発想は正しい。たとえ彼らが「ヤンキー的」な存在でなかったとしても。「明日はパーッと派手に行きましょう!」と生徒たちに気合を与えられる楓士雄もだが、清史の「お前ら! 気合入れてけよ!」の台詞も、ヤンキーについて掘り下げた今ではとても印象深い。


楓士雄は鳳仙との決闘への加勢を、怪我が治癒したばかりの轟に求める。轟の返事はご存じのとおりだ。決闘状を受け取ったのが轟だったらどうなっていただろうか。想像するだけでヒヤヒヤさせられる。楓士雄はふむ……みたいな表情を見せるが、「(前略)みんなが動揺してんの見てっと、バカな俺でもこりゃ一筋縄じゃいかねえんだな~ってのは分かっからさ」と、バカでも分かる回答を返してくれる。みんなという「仲間」が動揺という「感情」を抱いてるんだから動こうぜ! これが村山が指し示した男である。「知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずる」ヤンキーには「揉めんのに理由なんかねえ」し、コブラに負けた村山だってコブラに「所有」されず相談先としての「関係」を築くし、楓士雄も「みんなが動揺してんの見」たら動くし、放送室に閉じ籠って本を読んだところで轟は報われないのだ。そういうことを楓士雄は轟のみならず、俺たちにも明朗快活な姿をとおして教えてくれた。そして轟は楓士雄によって自分が「鬼邪高を汚したくない」「鬼邪高を守りたいと考えている」ことに気付き*10、鳳仙との戦いに赴く。その先に轟たちが得られるだろうものは、ザワオでジャム男が話してくれたとおりだ。

 

 

閑話:なぜ我々は轟の「牙斗螺!?なんだそれ」に興奮するのか

解答:それがあまりにも感情的だからである。なお「我々」が誇大な表現だという自覚はある。

クールで喋らず、ヤンキーから言わせればインテリぶってる轟が、知らない単語を耳にして「牙斗螺!?なんだそれ」と口と脳味噌が直結したかのような台詞を吐いた時、我々はそのギャップと年相応な振る舞いに興奮するのである。これが泰志だったら? 怪我してても顔が可愛いな*11で終わるだろう。司でも精々ちょっと動揺してるか?今日も顔が綺麗だなぐらいにしか思わないだろう。だが轟だったら? 結果は皆さんの胸の中にある。

 

興奮する理由は以上として、ならばどうしてこの台詞を言うのが轟だったのだろうか。

 

 

 

鳳仙戦でヤンキーとの心理的境界線がぼやける轟

少し前にツイートもしたが、楓士雄の「行くぞてめぇら!」という喝(気合)に対して轟は呼応しない。他の生徒の雄叫びを背後に、無言だが全速力で鳳仙の一群へ突っ込む。最後までシャツの裾が出ない*12ことからも、轟は平均的な鳳仙の戦力を上回っており(敗戦色濃厚なムードの中で四天王の小田島を元気に蹴飛ばしているが、対佐智雄となった時の戦力は不明)、コンテナ街の時のようにわざわざ気合を入れるほどではないと思ったのかもしれない。もしくは「“喧嘩手伝え”って頼みに来」た楓士雄に対して、お前が全日のトップを張れる男だと認めたわけじゃないという轟なりのプライドかもしれない。鳳仙のハゲ(土田)の「定時制の兄ちゃんたち呼ばねえと、どうにもならねぇか!」の台詞に対して結構遠くからすっ飛んでくる地獄耳を支えるのも、全日の(現)アタマとしてのプライドだろう。「クスリ、一切ダメだから。全日は全日で、ちゃんとカタをつけるように」と言われた以上、定時の不在故に「クスリばらまいた」相手に勝てなかったなんてことがあってはならないのだ。ヤンキーとは言い難い轟は「論理的思考」ができる人間だからこそ、村山の言葉だって真正面から受け止めるだろう。現に村山が「クスリ、一切ダメだから」と言った時の映像は村山本人ではなく轟の顔のアップである。しかし本当の悪玉は鳳仙ではなかった。

「戸亜留市と鬼邪高にレッドラムばらまいた奴は牙斗螺っつって、ここにはいねぇの!」

ここで轟の口から渾身の「牙斗螺!?なんだそれ」が放たれる。「クスリ禁止」の鬼邪高にそれを持ち込んだ奴の正体なのだ、気にならない筈がない。しかも村山からの情報だ。「かいさーん」した後に轟が考えるのは、打倒牙斗螺ではないだろうか。


鳳仙との戦いを終えて土手で休む全日のシーンで、轟から試みた全日という他者との会話が初めて成功する(その前に清史の腹の怪我を心配するも泰志に突っ撥ねられている)。「でもその上には上がいるって知ってるか」 内容は鈴蘭についての「知識」の披露であり、轟らしいと言えば轟らしいが、これは轟なりの自己開示とも考えられる。ここで初めて轟(ヤンキーとは言い難い人間)とジャム男(ヤンキー且つヤンキー的な心を言語化できる人間)の知識という「言語」が符合する。純正ヤンキーとの心理的な境目がぼやけてきた轟は、ラオウとの対峙を夢見て「ワクワクするなあ!」と壮語する楓士雄へ拍手を送る。それも一番最初にだ。「(歓声)」の字幕の中にこそいないが、轟は誰よりも先に楓士雄を讃えたのだ。他者への歩み寄りですら無言で行なう轟洋介。語らない男はどこまで行っても自分の感情を語らない。

 

 

「仲間」を理解するも「個人主義」を貫く轟

牙斗螺に幼馴染の新太がいると知った楓士雄は、新太奪還のために独り団地を目指す。そんな彼のもとへ、全日生が助太刀と言わんばかりに現れる。「しかもアジトは俺らの団地らしいじゃねぇかよ」「そうなると他人事じゃねぇんだわ」と各々が建て前を口にするが、物語の流れを汲めば本音はジャム男(言語化できるヤンキー)の「水臭いっすよ」に終結し、楓士雄の祖父がザワオ3話で話していた大波のくだりの文脈に基づいた行動であると推察できる。楓士雄のもとへ、彼の「気合」に感情を動かされた「仲間」が集まってくる構図だ。そこにドヤ顔でこそないものの内なるドヤ感が隠し切れていない轟が登場する。ネームドキャラの中で楓士雄に加勢する建て前(団地出身)を持たないのは轟洋介だけだ。轟もまた、楓士親や全日への「仲間」意識が芽生えたからあの場に現れたと考えるのが自然だ。純然たる楓士雄への加勢に見える轟だが、「プライドとナルシシズムが入りくんだヤヤコシイ男」が、純粋に楓士雄への加勢「だけ」で団地に赴くのだろうか。彼の中に辻と芝マン以外への仲間意識が開花したのは、鳳仙戦後の語らいを見れば明らかだろう。しかし彼はそんな単純な男ではないと、私は思いたい。楓士雄によって鬼邪高を守りたい、怪我したくないという感情(≒帰属意識)に気づいた轟は、何のために思い入れの無い団地へ向かうのか。


到着した轟は案の定「お前はダチを捜せ」と言って楓士雄のサポートをやめ(彼のサポートをするのは相棒の司と、なぜか他校のトップの佐智雄までいるがこれは「昨日の敵は今日の友」的な表現だと思われる)、辻芝や他の生徒と共闘するでもなく一人で戦いつつも戦局を見極める。ダチを捜す楓士雄ですらジャム男のことを守るのに、轟は自身の投石によって形勢逆転が見えたと感じたらすぐに団地の建物内へ侵攻する。鬼邪高のネームドキャラで団地の建物へと上がるのは楓士雄と轟のみであり、他は小田島、志田、沢村から使命を託された仁川といわゆる「強キャラ」ばかりだ。一枚岩の鳳仙には沢村の仇討ち(※沢村は存命)という瞭然たる理由がある。佐智雄が羽織る血染めの制服はその象徴だ。ならば楓士雄に助太刀する彼らが「鬼邪高」として団地に現れたのはなぜか。そもそも鬼邪高側は学校も何も考えていないのかもしれないが、それでは鳳仙戦後に河原で語らった意味も無ければ、「鬼邪高VS鳳仙」のかたちをとった映画としても成り立たない。そこで「鬼邪高」を背負うのが、純正ハイローキャラかつザワからの「団地」設定にも吸収されなかった轟洋介その人であろう。最終的に6ザワで「ヤンキー」の道に背を向ける轟は、「仲間」という「理由のない感情」を理解し楓士雄の援護に加わるも、いざ戦が始まれば己の目的のために動き出す。肝心の牙斗螺の親玉である金平兄弟は裏で定時のオトナたちがやっつけているが、映画シリーズ第一作のザムの琥珀奪還の流れに則れば、仲間を救出するという(我々観客に提示された)目的を果たしたことによって敵対勢力の戦意が無くなれば「勝ち」なのだ。轟は自分の投石で流れが上向いたことも確認している。楓士雄のガッツポーズで牙斗螺がやる気、「気合」を失くせば、最初に志田が叫んだ「気合入れてけ!」を最後まで貫いた鬼邪高鳳仙連合軍の勝利である。


ザワの轟のラストシーンについては最後に振り返りたい。

 

 

 

6ザワが僅かな出番で轟に与えたもの

6ザワに轟は登場しなかった。否、ザワでの回想とともに辻と芝マンの口から「一人で海釣りに行った」と語られるのみであった。友人である辻と芝マンが、他の生徒と同じ釜の飯ならぬ同じ板のもんじゃを突いている時、轟は一人で大好きな趣味を満喫しているのだ。まさか芝マンに「知ってるか?」とドヤ顔で自分の趣味をバラされているとは思うまい。しかしこれが私には、轟への福音のように思えてならなかった。


轟の趣味が「(海)釣り」と判明する流れにはいくつかのポイントがある。珍しく原沢商店に寄った辻芝に対し、「おいお前ら、轟はどうしたんだ」と訊ねるのは司だ。ザワで「村山さんの下にはついても、轟の下にはつく気はねぇな」と口にしていた司が轟の所在を気にするようになっている。古くから辻芝を知る司が、彼らと一緒に轟がいないことへ疑問を抱くようになったのだ。ザワでの出来事を経て、大なり小なり司の轟への好感度(=「仲間」意識)が上がったことが窺える。もうひとつのポイントが、辻と芝マンがは轟の趣味だけでなく「今日の予定」も知っていることだ。司の疑問に辻は「ああ、海行ったよ」とあっさり答える。「そういや轟何やってんだろ。連絡する?」ではなく、「ああ、海行ったよ」なのである。辻(と芝マン)がこの日の予定について連絡を取っていなければ、このような口ぶりにはならない。おそらく辻芝は轟を原沢商店に誘っている。だがしかし前から予定を組んでいたのかは定かではないが、轟がこの日原沢商店に顔を出すことはなかった。


轟は(撮影上の都合を無視すれば)「仲間」との交流よりも、自分の「趣味」を優先したがために物語の外へ出て行った。「6ザワ」は幼馴染とその周縁の団地組というヤンキーたちの物語であり、轟はそこと交わりはしたが混ざることはなかった。物語上では「仲間」などを理解してヤンキー的なものへと一歩近づいた筈の轟は、結局そこへ混ざらず「個人」で行動するような人間であり、ヤンキーにはなれないと言うよりも、そもそもヤンキーの遺伝子が備わっていないのだ。ヤンキーになるにもオタクになることと同様に「遺伝子」が必要であり(スタジオジブリ,2012)、「知性」と「趣味」を持っていた轟は、おそらく意図せずして「ヤンキー」に染まらない道を選んでいたのである。

 

 

轟の答えは「一緒にいるだけが仲間じゃねえ」

轟がヤンキーじゃなかったとしても、辻と芝マンは彼と一緒にいなくても轟のことを理解している唯一無二、否「唯二無三」と言うべきか、兎に角なにものにも代え難い友人を、轟が鬼邪高校で得たことを6ザワは我々に見せつけてくれる。


轟の趣味が釣りだと知った楓士雄とジャム男は(嘲りではなく意外性からだろうが)軽やかに笑う。ジャム男が前髪を人差し指で払うジェスチャーで轟を表した時、向かいに座る辻は因縁をつけるように身を乗り出す。さらに隣の楓士雄が前髪サラッ、釣り竿ブンッ、眼鏡クイッのトリプルコンボで轟を表現したので「お前バカにしてんのかそれ」と怒りを露わにする。辻は轟がバカにされるのが許せない、あるいは彼が外見で揶揄されるのを嫌うことをわかっていることが読み取れる。ここには辻から轟への友愛や自分たちのアタマへの尊敬が窺え、また拡大解釈だが辻がわかっていることは当然芝マンも理解している。その前に芝マンは「知ってるか?」と得意気に轟の趣味を紹介しているのだ、ここには「お前らが知らない轟の情報を知ってる俺たち」という仲の良さによる優越感や、一人で釣りをする轟、最高にクールだろ?というドヤ感が含まれているのではないだろうか。今までの無言キャラが嘘のように喋る辻と芝マンだが、「知ってるか?」と「お前バカにしてんのか」の短い台詞にこそ「轟一派」の魂が宿っている。多くを語らずとも、一緒に居なくとも、彼ら三人の絆は固い。

 


読んで字の如く大洋へ介する存在だった轟

ザワのラストで「鬼邪高のトップは、しばらく俺が預かるわ」と、自分こそがアタマだとは明言せず楓士雄の肩を担いだ轟は、その後私たち視聴者の知らないところで変わったりしていない。ハイローの外の世界からやってきた、「変化する」ことを既に知っている轟洋介は、ヤンキーの文脈に吸収されることなく海へと還っていった。村山の「そのうちお前にもわかるよ」を、きっと轟は楓士雄をとおして理解した。その上で、彼の答えは「でもお前らみたいにはならない(なれない)から俺は一人でも海へ行く」なのではないか。


ハイローで釣りをする人物と言えば山王連合会のダンとテッツだが、彼らは山王の釣り堀という「地元」、限られた世界の中でしか釣りをしない*13。鬼邪地区は海に面していない可能性が高く*14、ザワシリーズで轟以外に釣りをするのは楓士雄に「井の中の蛙大海を知らず されど空の青さを知る」と教えた楓士雄の祖父である。ザムでSWORDの外という大海を知った轟は、ザワでヤンキーという空の青さを知った。そして今度は彼が楓士雄たちに鳳仙や鈴蘭という大海を教え、いつか轟自身も海へと還っていく。

 

 


終わりに

身も蓋もない話をすれば、一ヶ月前にずっと放置していた6ザワ最終回を見終わった後、「轟くんがこの話に出ないでよかった」と私は心底感じてしまった。6ザワがあまりにも(幼馴染という)「ヤンキーたち」の話だったからだ。もしこの物語に轟くんが出てきて下手に活躍でもしたら、それはなんだか、あまりにも「仲間」とか「絆」とかそういうものに呑まれすぎてしまい、そうなるといよいよもって轟洋介は村山良樹の轍を踏むだけの人間になってしまうのだ。SWORDの外から来た村山は仲間とともに鬼邪高を「卒業」し、その後の進路(職業選択)も前編に記したとおり非常にヤンキー的だ。6ザワでも村山が引き続き肉体労働に勤しんでいることが示唆される(もっとも何度もバイトを首になっていただろう村山が、ちゃんと仕事を続けられているのは大変めでたいことである)。これで轟までヤンキーになっちゃったら、それはもう村山の二の舞でしかないのだ。「ヤンキー」になることが悪いんじゃない。村山芳樹の噛ませとして登場した轟洋介が彼と同じ轍を歩んだら、それは最早「呪い」になってしまうのだ。ほんと頼むから轟洋介を村山の轍を踏むだけの人間にしないでくれ。それが私の願いだったし、今でもずっと願ってる。だから轟くんが「海行った」と辻が教えてくれた時、本当に嬉しかった。芝マンが「知ってるか?」とドヤ感たっぷりに轟の趣味を私たちに教えてくれた時、ほんとにほんとに嬉しかった。轟くんはもう一人じゃないし、でも轟くんは最初にSWORDの外からやってきた時からあんまり変わってない。「ゲーム」が「釣り」になったのだ。もしかしたら鬼邪高の外には釣り友もいるかもしれない。轟の趣味が判明した時に知らないオタクが心配していた「釣りって本当に魚釣りか? もしかして釣りという名の不良狩りしてるんじゃないか?」だったとしても、「ヤンキー」になるよりよっぽどマシだ(それはそれで面白いまであるが、物語的にそれは過去への「退行」になってしまうので避けられる展開ではなかろうか)。

 

轟くんがヤンキーじゃないことを検討するには「気合」じゃどうにもならない。轟くんと同じように、分厚い本で自分をぶん殴らないといけない。「ヤンキー的」であるかどうかは、特に全日はわかりやすい。でもその中でヤンキーらしからぬ風貌の轟くんがヤンキー「じゃない」ことを証明するには、「ヤンキー的なもの」の真逆の手法を取るしかなかった。それこそがきっと答えだ。


轟役の前田さんが、ご自身のファンクラブで轟の今後について「非公式で構わないので」と訊ねられた時、「弁護士、とか?」「あんな風貌なんでね。やっぱ、「学」で、あの、立ち向かっていきたいですけどね。拳ではなくて」と仰ってくれたのも嬉しかった*15*16。見た目で判断されるのを厭う轟なんだから、その風貌に反しておつむの方は……なんてことは自分自身が一番許せないだろう。知性と趣味(※前田さんも轟の「釣り」に関しては驚いている)を持っている轟はヤンキーにはなれない。轟洋介は轟洋介だけの道を行く。誰かの足跡をなぞるような男じゃない。ハイローのファンとしては、6ザワは「ヤンキーがリアルな生活を描くとかえってヤンキー性が薄くなる」と斎藤が指摘(スタジオジブリ,2012)したとおりの物語になってしまったと思うが、轟洋介の一瞬に込められた描写には、言葉が出ないほど感謝している。これからも轟くんが、自分だけの道を歩んでいくことを願ってます。

 

 

 

「夏がおわったら、わたしたち学校へもどるのよ。」と、ペギイがいった。
「わたしたちもそうよ。」と、スーザンがいった。
「そりゃそうだけど、永久に学校へいってるわけじゃないわよ。」と、ナンシイがいった。「わたしたちだっておとなになるわよ。そうしたら、一年じゅうこの島に住めるわ。」
「わたしたちもよ。」と、ティティがいった。「そして、冬は、氷の上をそりで食糧を運ぶんだわ。」
「ぼくは、いつかは海にいくんだ。」と、ジョンがいった。「ロジャだってそうだよ。でも、休暇にはかならずここに帰ってくる。」
「ぼくは、じぶんのサルをつれてくるよ。」と、ロジャがいった。
「それから、オウムも必ずつれてくるわ。」と、ティティがいった。
「そりゃそうと、いつまでぶらぶらしててもしょうがないわ。」と、ナンシイがいった。「海に出ましょうよ。」

――ツバメ号とアマゾン号(アーサー・ランカム著、神宮輝夫訳)

 

 

 


参考・引用文献(公式パンフレット・各種雑誌類を除く)

アーサー・ランカム著(神宮輝夫訳),ツバメ号とアマゾン号岩波書店,2010年(※原作は1930年)
五十嵐太郎(編集),ヤンキー文化論序説,河出書房新社,2009.
稲垣恭子竹内洋,不良・ヒーロー・左傾―教育と逸脱の社会学―,人文書院,2000.
斎藤環,世界が土曜の夜の夢なら―ヤンキーと精神分析角川書店,2012.
斎藤環,ヤンキー化する日本,角川書店,2014.
佐々木洋成,価値規範と生活様式―ヤンキー少年にみる職業・進路選択の契機―,年報社会学論集{2000 巻,13 号}, 2000{, 239-251}.(※Ciniiから閲覧可)
重松清くちぶえ番長,新潮社,2007.
スタジオジブリ,熱風―スタジオジブリの好奇心 特集「ヤンキー」,スタジオジブリ,2012.
成実弘至(編集),コスプレする社会―サブカルチャーの身体文化,せりか書房,2009.
難波功士,ヤンキー進化論―不良文化はなぜ強い,光文社新書,2009.
速水健郎,ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち,原書房,2008.
ヤコブ・ラズ(高井宏子訳),ヤクザの文化人類学―ウラから見た日本,岩波書店,1996.

極論『くちぶえ番長』と下の「ヤンキーとは?」のウェブサイトだけ読めば大丈夫です。

 

参考ウェブページ

ヤンキーとは? どんな人がなるのか 定義と理由を年代別に考察 https://satomi-manga.com/the-yankee/
斎藤環の著書から引用してわかりやすくまとめているサイト)
ご存知でしたか 日本人の9割がヤンキーになる 1億総中流の時代はよかったなぁ http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37682
コピペの館 超まとめ DQNには舐められたくないブルーカラー http://kopipenoyakata.blog51.fc2.com/?mode=m&no=253&photo=true

 

*1:ニュータイプ2019年10月号より

*2:山王連合会テーマソング『Do or Die』、MIGHTY WARRIORSのリーダーICEのポリシー「Change or Die」、そして轟一派テーマソング『Ain't Afraid to Die』

*3:『世界が土曜の夜の夢なら』で斎藤は、亀田三兄弟と父親の関係性を具体例として挙げている

*4:轟の性格に関するこのような記述はあらゆる媒体で確認できる

*5:別冊プラスアクトVol.34

*6:もっとも教育機関として機能していなさそうな鬼邪高に「登校拒否」や「不登校」の語を用いるのも、不登校経験者としてはなんだか不思議な話ではあるが

*7:この詳細は『ケータイ小説的。』や『ヤクザの文化人類学』を読まれたし

*8:日経エンタテインメント!

*9:キネマ旬報NEXT Vol.28

*10:日本映画navi

*11:前田さんの泰志役の佐藤流司さんの第一印象は「可愛い顔の子いるな」だった(ごーきradio♯111)

*12:シネマスクエア/飛び蹴り時に後ろは出てしまうがあれは物理的、体勢的に出ざるを得ないだろう

*13:なぜこのような表現をしたかというと彼らはザ湯でSWORDの外へと出ているため

*14:FMで西郷が見せる地図より

*15:ごーきradio♯118

*16:私が轟くんを知った時も法の道に進んでほしいと思ったので殊更嬉しかった