試されてるのはテニモンの方 / テニミュ4th初演感想

結論:「演出の変更に対する賛否」の軸だと否寄りの意見だけど「楽しかったか」の軸だと楽しかったので追いチケしました。今公演を観て何を感じたかで、テニミュに対する自分のスタンスが分かってしまうとんでもない作品だなあと思います

 

 


テニスの王子様は遙か昔、私が小学生だった頃から連載していて、アニメもその頃から放映していた。夕方のテレ東アニメはオタクに限らず小学生ならとりあえず見ている子が多く(年下のきょうだいがいるなら尚更)、私も時折友達と、近所の個人経営の本屋で「テニプリなら不二と菊丸のどっち派?」という会話をしていた。私は菊丸派だった。

4thの初演でもある不動峰公演を観に行って思い出したのはそれだった。ああ私、昔、テニプリをアニメという子供番組として見ていた時の私は「なんとなく」で菊丸が好きだったなあ。しかし今の私はテニプリを「なんとなく」で見ている人間ではない。半生を捧げ、生きてく途中で雷に打たれるように思い出してしまった初恋の記憶から第二の青春を歩み、そしてそれを終えた今の私はテニミュをひとつの作品として見て、観て、咀嚼して、時にはこうして吐き出さずにはいられない嘔心瀝血のオタクだ。テニモンの私がテニミュに見い出させてほしかったのは、「なんとなく」でテニプリを見ていた頃の記憶ではなかったようだ。

テニミュ4thはテニモンへ投じられた試金石だ。湖に投げ込まれた石が描く波紋の広がりを見る人もいれば、揺れる湖面に浮かぶ空の色や雲の流れを見る人もいる。今公演はこれまでテニミュを散々観てきた我々テニモンが、テニミュに何を求めていたのかを浮き彫りにする作品だ。なので今回初めてテニミュを知ったオタクは、他人の感想に左右されずに自分が感じたままを思ってほしい。むしろそれこそが、テニミュという「2.5次元舞台作品」への純然たる感想になるのかもしれない。

 

 

 


初日の後、久々に覗いたツイッターのタイムラインはまあまあ荒れていた。テニミュが編み出した「球筋をピンスポットライトで魅せる」手法を4thは捨て、選手が打球音に合わせて文字通りに「見えない」ボールをラケットで打つようになったらしい。他にもネットの変化、ベンチの撤廃とその代わりに用いられる大きなセット、スクリーンの役目を果たすべく大きく改変されたネットオブジェなど、曲の一新のみならず従来のテニミュの技法からあらゆる点が変わったようだった。初日のTLの評価はあまり芳しくない、厳密には戸惑いの方が多かったため、私もできる限りハードルを下げてTDCの固い椅子に腰を下ろした。第2バルコニー最前センブロ。座席は最高のスタートだが、果たして。

 

 


何周もする物語

4thシーズンの幕開け――と言っても上がる幕はなくプロジェクションマッピング投影用の、壁にもベンチにもなるセットが開演前から舞台上に堂々と坐している――が、原作最終巻収録小説の卒業式から始まることも知っていた。その情報を得た時、私は4thが新たにやろうとしているのは違ったかたちでの「テニミュ」のかたちの踏襲なのではないかと考えた。これまでのテニミュは楽曲『THIS IS THE PRINCE OF TENNIS』で始まりその曲で終わる。最初に「みんな、楽しんでる?」とクールに決める越前リョーマが、天衣無縫の極みに到達した後我々に「みんな、楽しんでる?」と再び問うてくれる。そしてまた新しいシーズンが始まり、リョーマくんは何度でも私たちに言葉を投げかけてくれる。4thは演出だけでなく、楽曲も一新すると事前に公表していた。つまり『THIS IS~~』も無ければかの有名な『あいつこそがテニスの王子様』も、初演の『ザ・レギュラー』の「どんなに未来が茨の道の彼方でも」が決勝戦の『ウィニング・ロード』の「ここまでの道のり 茨のウィニングロード」に繋がることもない。代わりに4thシーズンは、いずれ来たるキャラクター・キャスト双方の卒業と試合を挑む(対象は手塚だが、演出上打球を打ち込む方向は客席なので、観客に向けてボールを放つことで物語の開幕を告げてもいる)越前リョーマを最初に持ってくることによって、テニミュが4thシーズンを一周し終えた時のカタルシスを我々に与えようとしているのではないか。終わりが始まりに繋がる。一つのシーズンが終わってもそれで終わりとは限らない。これまでのテニミュがそうであったように。

 

 


視覚で追うボールから聴覚で得るラリーへ

拒否反応を起こしている人が多いように見受けられる球筋のピンスポ廃止は、まったくと言っていいほど気にならなかった。ブランクを抜いても10年以上テニミュを観てきた私の脳は、見えないボールを握ったラケットで打つ選手とそこに合わさる音さえあれば、彼らが試合をしている様子をはっきり捉えることができた。それにピンスポで視覚的なボールを無くした代わりに、打球音という聴覚的なボールがよりリアルなものに進化したような気がする。テニミュならではのパコン、という一昔前のmidiみたいな打球音もテニミュおばあちゃんとしては味わいがあってよかったが、WOWOWの生中継から聞こえるような弾ける音の方が聞いていて清々しさがある。さらにフォロワーがツイートするまで気付かなかったが、これまでのテニミュには無かったスイング(ラケットを振った時の)音も新しく追加されている。ラリーの流れを視覚に頼らない分だけ、4thは聴覚に訴えることで黄色いボールの具現化を試みている。

SEに関して、反対にくどいと感じたのは試合以外の動作に付与されているものだった。例えば菊丸の試合前のラケット捌き。今まではキャストがくるくるとラケットを弄ぶ動作にSEが付いたりはしなかったが、今回は菊丸がそれをする時、ラケットが風を切るブン、ビュウ、というSEが鳴る。他にも鉄が気合を入れるために自らの肘を手の平で打つ時にもわざとらしい、なんともアニメ的なべちん、というSEが鳴る。これらは打球音のような「音」ではなく仰々しいサウンドエフェクトにしか聞こえなかった。アニメの効果音的なSEは、演者とのタイミングが少しでもズレるとただ寒いだけになってしまう。現に鉄が肘を打つ時のSEは少しズレており、しかしその僅かなズレが非常に大きな違和感となって客席まで届いた。眼鏡を押し上げる乾のSEのように、毎回合わせたり多少ズレても誤魔化しを利かせたりできないのなら、特に鉄のSEは凱旋からと言わず今すぐやめてほしい。

 

 


とあるテニモンが考える「テニミュのオリジナリティ」とは

一旦演出から離れて2.5次元舞台、改め「原作あっての作品」という観点からの感想を述べたい。舞台を見ながら、自分が今「テニスの王子様」の物語に触れている感覚があった。それは我が家のクローゼットに眠る重たいラケットを掘り起こして、再び握り直すような感覚だった。そうそう、テニスの王子様って面白いんだよな。電車での佐々部との遭遇から偶然の試合、テニス歴2年の堀尾、後輩をカモろうとするよくない先輩たち、そしてROCKET DIVEの桃……。2.5次元作品で重要とされる「原作の物語の再現」という点では、一定の時間制限があるメディアとしての舞台の性質を考慮すれば非常に丁寧につくられており(特に不動峰の新テニス部発足の経緯をがっつり盛り込んだところは4thシーズンの大きな功績になるのではないか*1)、テニミュを最早「テニミュ」だけでも楽しめるようになったテニモンよりも、テニミュには明るくなくとも原作をよく知るオタクこそとっつき易い作風の舞台だと感じた。これまでテニミュを敬遠してきた原作厨が、「なんとなく」で舞台のテニプリに飛び込むなら今だと言いたい。

しかしテニミュはこれまでがそうであったようにリピーターが多く、むべなるかな4thも喧々囂々と感想を言ってSNSを盛り上げているのは既にテニモンである人間がほとんどだ(テニミュ側もそれを理解しているから、「新しいテニミュ」を謳いながらも旧シーズンのキャスト、いわゆるテニミュOBの役者を南次郎や井上役として招いたのだろう)。1stシーズンという最初の最初はみんな等しく「初めてのテニミュ」、その上ほとんどのオタクが「初めての2.5次元舞台」であった。4周もやれば5年どころか10年、15年選手はザラにいる。テニモンの、あるいはテニミュを観に行く2.5次元オタクの頭にはこれまでのテニミュやありとあらゆる舞台の経験が叩き込まれている。

今公演を観て、テニモンの私の脳裏を過ぎったのはテニミュ以外の色んな2.5次元舞台を寄せ集めた朧げな記憶だった。座席位置によって効果が大きく左右される映像演出の多用、位置を変え姿を変え地面を這う巨大な舞台装置。そこにある物語がテニスの王子様であることに違いはない。しかし私が求めていた「テニミュ」はこれだったのだろうか。演出も曲もほぼすべてが一新される未知のテニミュ、4周目という「最新のテニミュ」を求めていた。しかし「最新型の2.5次元舞台」の雛形に収まるような舞台を観に来たわけじゃない。何らかのオリジナリティが失われてしまったように感じた。

 

テニミュのオリジナリティとは何だったのか。クセの強い歌詞、キャッチーな音楽、想起するものは人それぞれだろう。ピンスポが描く球筋の技術を伝統にしてほしかったテニモンだっている。私がテニミュならではの良さとして特に強く受け取っていたのは、ベンチワークに見られるような「コマの外」で動くキャラクターの姿だった。原作者は自分が産み出したキャラクターを演じる彼らに、「分からなくなったら、迷ったら原作を読んで」といった趣旨の言葉を送ったことがある。漫画やアニメは平面だ。しかしそれを演じるキャストは全方位360度のすべてを読者に、観客に見定められる。漫画のコマの中を忠実に再現することのみならず、コマの外でも息をする彼らの姿を、原作との齟齬をなるべく抑えた上で見せなければならない。個人的な背丈からキャラクター同士の体格差、顔立ち、声質、動作の癖、どうしたって齟齬は生まれる。キャラクターの正解は原作者にしか産み出せない。それでもテニミュキャストは原作を、脚本を読み込んで少しでも2次元に近づこうとする。その努力と齟齬の果てにある「コマの外」を私は見たかった。

 

 


キャラクターの新たな一面を引き出すための「テニミュ

ここで3rd金田の話をしたい。

彼は試合の最中に、「ばか澤コノヤロウ!!」とダブルスパートナー且つ部長という目上の相手を一喝する。本来シングルスプレイヤーの赤澤は、ダブルスでも自分主導で戦っていた。しかし菊丸の体力が観月の予想を上回り、その上黄金ペアがデータに無かったオーストラリアンフォーメーションを披露することにより精神的にも窮地に陥る。赤澤が雄叫びを上げて靴紐を結び直しているところに、金田が「ちょっと考えがあるのでサポートお願い出来ますか?」と進言する。「だまれ金田ひっこんでろ」と追い払われた金田は、それでも「部のために一言言わせていただきます」と漏らし、ついに最初に記した言葉とともに爆発する。これが原作の一部の大雑把なあらすじだ。

3rd金田は、そこに至るまで赤澤の背中を見ながら何度も歯痒そうな表情を浮かべていた。時には声をかけようとするも、毛の逆立った赤澤の背を叩く勇気が出ない。金田が項垂れようと赤澤は気付かないし、決着がつくまで試合は続く。選手兼マネージャーの観月のシナリオどおりに行かないどころか、ネットの向こうの対戦相手は持ち直してきている。赤澤が一人で煩悶している時、金田もその姿を見つめては苦悶に下唇を噛んでいた。もしかしたら悔しくて――そうならば自分が彼に実力で及ばない上に声をかける度胸も無いことへの恥ずかしさもあっただろう――涙を堪えていたのかもしれない。単純に案を言い出せない自分に焦れていたのかもしれない。私はそこで初めて、金田一郎が「ばか澤コノヤロウ!! 敵はダブルスで来てるんだっ!!! 今はシングルスじゃないんだコノヤロウ!!」と叫ぶまでのもどかしさや遣る瀬なさをこの目で見た。漫画のコマの中にあるのは進言する金田と聞く姿勢を持たない赤澤、そして件の叫びである。そこに至るまでの心理描写も、ルドルフ側は赤澤が中心で金田の心情は「まずい 逆へ…」の一言のみだ。

テニミュ金田一郎は舞台の上に立っている。自分の試合中は常にラケットを握り、コートの上に立っている。プレイしながら思うことが「まずい 逆へ…」だけの筈がない。しかし漫画の中にはそれしか書かれていないのだ。テニミュキャストは漫画のコマ、あるいは脚本のセリフや動きの指示という点と点を結ぶように「コマの外」を演じなければならない。私はそこにテニミュの醍醐味を見出していた。3rd金田を通じて金田一郎のあったかもしれない一面に触れた私は、初めて金田の写真を買った。生え抜き組として赤澤の背中を追い続けた金田の信頼や憧れと、部のための思いを原作以上に強く感じた結果だ。

 

反対に「これは原作のキャラじゃない! けど好き……」となってしまい写真を買ったキャラもいる。3rdダビデだ。過去の記事から3rdダビデ評を引用する。

でも私が好きになったダビデは、私が読んだ漫画の中にいる天根ヒカルではなかった。ダビデはあんな風に柔らかく笑……うかもしれないが、あまりにも頻度が多すぎる。あれは女の子から物を貰うのが苦手な男子の微笑み方ではない。自分の顔が美しいことを知っている男子の笑い方だった。困ったことに私はそれが好きなのだ。前髪を弄りながら満足げに微笑むさかがきダビデ。DL2017でアリーナ通路の近くにいた私に微笑んでくれたダビデ。私が電車を乗り継いで遠路遥々木更津の海辺の学校までチョコを渡しに来てもまごつくことなく微笑んでそれを受け取ってくれるダビデ。ここでもう一人の私が「原作読み直せ」と警鐘を鳴らして夢から覚める。漫画を読んでもアニメを見ても、はたまた昔のゲームを引っ張り出しても、彼はどこにもいないのだ。天根ヒカルへの迸る好意を持ち合わせていない私は、さかがきダビデを観て原作の何かを思い出した訳ではなく、あれはあれで完全に別個体として認めてしまったのだ。

君の輝きを観る - つぶやくにはながいこと

 

 


「漫画はキャラクターだ」が4thが観せたいのは何なのか

テニミュ3rd、否1st関東氷帝初演から、テニミュを観た後は必ず誰かの写真を買っていた。いくら公演がつまらなくても、写真を買おう、これがほんの僅かでもインセンティブになればと思えるキャストはずっと居た。今後どうなるかは分からないが、今回初めて誰の写真も買わずに帰った。いや、良いと思えるキャストもいるにはいる。乾はソロ曲がハマっているし、菊丸はセットの変更に伴い数列構成から一列構成になってしまい、キャラクター同士のやり取り(≒「コマの外」)に制限があるベンチの中で賑やかしの役を引き受けている(池田も同様。ただし池田はテニミュボーイズが演じているとおり特定のキャストを起用するほどではないキャラなので、彼が目立つということは本来目立つべきレギュラー陣の影が薄いということの証左でもある。それを抜いても池田が目立っているのは如何かと思うが、私はむしろ「コマの外」が一番よく見えた池田のブロマイドが欲しいと思ってしまった)。桃城や橘も新テニミュ公演時からの成長を感じた。しかしいずれも写真を買おうと思えるほどではない。なんというか、全体的に良くも悪くもそつがないのだ。抜きんでた何かが見えるキャラもいなければ、悪目立ちするキャストもいない。おそらく今公演は演出や楽曲という舞台の大枠を成す部分の変更に目が向きがちで、キャストの演技から浮かび上がるキャラクターの像にまで注視する余裕が私に無いのでは――と思ったが、どうやらそれだけではないらしい。

個人的な2公演目を迎えて再確認したのが、映像演出の多様による視点の分散だった。これまでもテニミュは、いきなり謎縄跳びをさせたり一球勝負でNHK教育Eテレではなく)みたいなCG背景を映したり、後期に至るにつれてプロジェクションマッピングなどの、照明ではない映像演出を使用するようになった。それが一際目立つのが今回の4th初演だ。鉄や河村の波動球も、照明ではなくセットにエフェクト的な映像を映し出すことで勢いや力強さを表現している。しかしこのようなプロジェクションマッピングは座席を選ぶ。2バルセンブロ最前では上方向へのズレが若干あるぐらいに収まっていたが、別の日にあえて1バルサブセン後方で観劇した時の波動球の演出は、ラケットから8割ズレていた。演出によって起こり得る違和感を目の当たりにすると、どうしてもその瞬間我に返ってしまう。あ、これは所詮舞台なのだと。

他にも舞台後方の壁や逆三角形のオブジェに映し出される青空、青学曲で舞台全体を覆うトリコロールのサンキャッチャーみたいなCG背景、伊武曲の梅雨のように鬱屈とした薄紫の世界。上手と下手、さらに上部にも聳えるセットやプロジェクションマッピングによって、「舞台」という全体的な空間を強制的に意識させられる。リョーマVS伊武戦の最後の曲では、青空の上を流れる雲が試合の邪魔をする。舞台のイメージが、キャラクターの印象が映像演出によって塗り潰されてしまっている。青空なんて、清々しかったり奮起するキャラの姿の背後に青が広がって入れば勝手に脳内で補完できる。舞台の奥が灰色で、滴り落ちる水の音が鳴れば雨が降り始めたのだと理解する。試合後の背景がオレンジならば、明日へと進む前に結果を振り返り奮起するための黄昏なんだろうと想像できる。そこにキャラさえいればいいのだ。キャラクターが立って(無論二重の意味で)、コマの内外を表現してくれさえすれば、観客はいくらでもその奥に「舞台じゃない」風景を見い出せる。今回のような映像演出が辛うじて合っていると思うのは乾ぐらいだ。自他共に認めるデータキャラの乾は、まさに昨今の映像技術向きのキャラクターだと思う。

 

原作者の許斐先生は「漫画はキャラクターだ」と仰っている。キャラクターがいなければ物語は始まらない。しかしテニミュ4thは、4thが「新たな試み」として取り入れた手法や技法がことごとくキャストを飲み込んでしまっているように感じる。飲み込む、あるいは演出やセットに埋没していると言えばいいだろうか。目まぐるしく動き回るプロジェクションマッピング、やたら柱が多く役者の姿を舞台上から遮るセット。M1やサービスナンバーのような全体曲は全員が手前に現れるから流石に見えるが、センターブロックを選ばなければ試合中や試合曲の時に見えないキャストが発生する。それはキャスト同士の立ち位置が被ってしまったからではなく、セットの奥に立たざるを得なかったり、扉の奥に佇んだり、セットの柱の陰に重なってしまったり、単純にセットが邪魔でキャラクターが見えないのだ。これは致命的な欠陥である。

加えて、今回はキャラクター紹介ソング、例えば初演の『THIS IS~~』や『これが青学レギュラー陣なのだ!』のような楽曲がまさかのサービスナンバーとなっている。「サービスナンバーがキャラ紹介になっている」のは面白い(し、観た時に「これ最終的にドリライ的な興行で全校歌ってくれるんですか!?」と期待に沸いた)と思う反面、テニスの王子様の物語を描く本編中にキャラ紹介がされないために、今回なら「11代目○○」といった各テニミュキャラへの第一印象がぼやけてしまう。全体曲でのソロパートこそあれど、不二や河村はピンスポット*2を浴びないまま試合に挑む。この二人は私の中で特に印象が薄い。

許斐:空気になるキャラは作らないようにしています。ただ『テニス』の場合は、ファンの皆さんがキャラを補完して下さっているところもあって。どんなキャラを出しても、必ず良いところを見つけてくれるんですよね。

【ジャンプSQ.】若手作家が聞く『マンガの極意!』許斐剛先生×入尾前先生 | マンナビ|マンガ賞/持ち込みポータルサイト

mannavi.net

原作者の言う「キャラの補完」が、テニミュの場合は「コマの外」であったりミュージカルならではの「歌」であったりするのだと私は考えている。そこからさらにファンや観客が何かを見い出す(補完する)。原作漫画もテニミュも、何年どころか十何年も続いている作品だ。個々のキャラに既にファンがついているのは言うまでもないが、だからと言って原作者が「核」としているキャラクターの像を描くことを、テニミュに限らず他のメディアが怠るなんてことはあってはならない。「新しいテニミュ」を標榜する4thシーズンは我々観客に何を見せたいのか。物語か、キャラクターか、それとも「新しい」舞台セットや演出や楽曲か。私たちは「新しい2.5次元舞台」が観たい訳じゃない。それならばテニミュである必要性が無い。テニミュ4thという新しい「ミュージカルテニスの王子様」を観に来たのだ。

15年以上も続けてきたものを打ち棄てて刷新しようとする心意気、そしてそれを実行する覚悟を持ってくれる人間が今でもテニミュに携わってくれている事実は、テニモンとしてもテニミュを観てきた原作厨としても筆舌に尽くしがたいものがある。もちろんポジティブな感情だ。しかし原作を持つ2.5次元作品として、そして大前提である舞台作品としての良し悪しは別だ。楽曲に関しては演出以上に個人の好みに因るところが大きいと思うので、二幕最初の曲と不動峰の校歌(二幕の方)が好きだったと述べるのみにするが、セットに阻まれて本来見えるべきものが物理的に見えない点は至急改善してほしい。

 

 


写真を買うかチケットを増やすか

少し戻って3rd聖ルドルフ公演だが、私は金田をべた褒めして写真も買ったが公演のチケットは買い足さなかった。ツイッターでの評判が良すぎた結果、凱旋公演まで待っていた私は生で観た時に却って拍子抜けしてしまったのだ。今映像で見返すと普通に面白いのだが、その時の私は周りが褒め称えるほどのものを得られないまま落胆の帰路を歩んだ。金田のみならずキャストはよかった。お披露目の時から比較的評判が良かったらしい8代目桃城も前回の不動峰公演で惚れかけたとおりだったし、菊丸のアクロバティックも相変わらず俊敏で冴えわたっていた(アクロという点で8代目を上回る菊丸は今後まず現れないだろう)。その前の不動峰公演では良い意味で悩みに悩んで菊丸と手塚の写真を買ったが、建て替え前の青年館最後の公演を観た私は、取り壊される前の壁にメッセージを書き残すことすらできないほどの絶望の中でレンガの階段を下りた。チケットは、当然買い足さなかった。

ところが私は今公演のチケットを買い足している。SEも映像演出も大袈裟でキャラが見えない、キャストの写真を買わなかったのは初めてだと憤ってはいるが、チケットは増えている。理由は最初の座席(2バルセンブロ最前)がどう考えても大当たりで、他の座席でも同じように観ることができるのかを確認したかったのと、(良くも悪くも)本当にすべてが変わってしまったのでもう一度観ておかねば……というテニモン魂、そして純粋に楽しかったからだ。身も蓋もないことを言えば、追いチケさせた時点でミュージカルテニスの王子様4thシーズン VS 私 feat.不動峰公演はテニミュ4thの勝ちである。あんたもわりと頑張ったけどね。

年末年始の「新テニミュ」では遠征もしたしキャストの写真も買った。興行側としても観客側としても、これが理想のかたちだろう。4thはテニスの王子様の物語の面白さを再確認させてくれた。でも作品の「核」たるキャラクターの魅力が伝わらなかった。きっと今後も私はテニミュ4thを毎回数公演ずつ観に行く。たとえ演出がキャラを覆い隠してしまっても、そこにテニスの王子様の物語があるならば。それに今公演で井上守や不動峰のクズ顧問を出しておきながら、山吹公演でテニス部顧問の伴爺こと伴田幹也を出さない訳がない。私は原作により近い、「伴爺の代わり」という中学三年生には重すぎる台詞を背負っていないテニミュの千石清純も観たい。それは原作厨の私とテニモンの私、両方の願いである。

 

 

 

あなたがテニミュに求めるものは

テニミュ4thは「新しいテニミュ」であると同時に「再確認」のテニミュだ。原作を踏襲してつくられたテニミュが、必ずしも前シーズンのテニミュを踏襲するとは限らない。それが今だ。テニミュ4thを前に何を感じたかによって、自分がテニミュに何を求めていたのかが浮き彫りになる。新しい手法で描かれるテニスの王子様の物語に、新たな初演だとワクワクが止まらない原作寄りのテニモン。2.5次元のパイオニアとして古典や伝統になってほしかった、ピンスポで描く球筋が、コマの外が観たかったとそれぞれ複雑な胸中のテニミュ寄りテニモン。一方に偏っているテニモンもいれば、両方の要素が複雑に絡み合って溺れてしまいそうなテニモンだっているだろう。そこには正解も不正解もない。自分のスタンスが分かってしまうとんでもない「テニミュ」は、人によってはパンドラの箱だったかもしれない。けれどその底には、きっと希望が眠っている。テニミュを観るすべての人が、自分なりの希望を見つけてくれるのを4thシーズンは待っている。

 

 

 

 


他雑感

・一番泣きそうになったのはM1の最後に井上さんとしてきただいが舞台に上がった瞬間だった。がうちは他の2.5でも観たことがあるしテニミュにもちょくちょく顔出すイメージがあるけど、まさかのきただいだよ。もう一度テニミュの舞台に上がってくれておばあちゃんは嬉しいよ。あと自分より年上のキャストが舞台上に居てくれるの精神的に助かる テニミュおばあちゃんはガラケーの待ち受けをグリーン軍にしていた時期があってだね。次はまさしがカツラ被って伴爺やらない!? デカすぎるか……

・がうちの南次郎は「がうちの南次郎」じゃなくて「上島南次郎」の後継色が強い。バレエも嗜んでいるのがデカいだろう。南次郎役は固定じゃなくて都度変わるのかな?と踏んでいる(がうちのスケが毎回合うとも思えない)ので、上島南次郎と森山南次郎の毛色が違ったように、色んなテニミュの南次郎が観てみたい

・4thのキャスティングは新テニミュ以上に「歌唱枠」がある気がする。手塚の山田くんが歴代一と言っても過言ではないぐらい歌が上手い、ほんとにリアルタイムでピッチ修正入れてるのか?ってぐらい上手なので、その手塚に遜色ない大石を、ということで原くんに白羽の矢が立ったのではないか。原くんも調子がいい時はもしかして今修正してる?と思うぐらいに外さない上に爽やかな歌声が印象に残る

不動峰の歌唱枠は校歌で他よりソロパートが多く用意されている森、だけじゃなく実はサービスナンバーのソロで目ならぬ耳を引くのが桜井。ちゃきちゃき動ける内村は歴代同様ダンス枠か

・楽曲に関しては本当に好みの問題だと思うけど黄金曲がダサいのだけはマジ。峰校歌やサービスナンバーだけじゃなく乾ソロの「He is perfect!」とか、これドリライ的な興行でコールさせてくれるんだろうな……と感じる瞬間が多々あったのでコロナは一秒でも早く滅びよ

・上でも少し触れたけど池田が可愛かった。どうやら池田役のテニミュボーイズは池田選任らしく、そりゃあ張り切りもするよなあと思うし現に私はこいつ可愛いぞと思った。そこはかとなくおバカキャラのにおいがする。正解も不正解もないってさっき書いたけど、池田については「目立ちすぎ」の意見の方が正しい。でも元気な池田可愛いよ。池田がいないとベンチ寂しいよ。手塚も不二もスン…って澄まして座ってるだけだし、そこに誰かが絡みに行くことも稀だ。だってセットがクソなんだもん。このままだとベンチワークで今日はどうするかな、みたいなのが観られなさそうで怖い。3rd滝が試合を終えた宍戸にタオルを渡す日と渡さない日があって、滝役の山﨑さんが「滝も生きてるからタオルを渡す心境の日もあれば渡さない日もある」みたいに発言してたのが印象的で、実際タオルを渡すパターンでも表情が割と素直そうだったりちょっと悔しそうだったり、そういうのが、このままだと4thでは観られなさそうだなあ……

・頼むから山吹公演で伴爺出してくれ。伴爺の役割を吸っちゃった所為で人生3周した感じのあるテニミュの千石はもう充分観た。亜久津の才能を見抜いた上で言語化できるのは中学生の彼らじゃなくて指導者の伴爺だ。頼むから山吹公演で伴爺出してくれ

 

*1:ただし1stで橘を演じた北代さんに不動峰のクズ顧問役まで兼任させたのは怒る。クレジットに無けりゃいいって話じゃない。1stモンの集客を当てにしながらその配役ができる品性を疑う。井上さんだけじゃなくて河村パパも演じたのは、かつて選手側だったキャストが親世代を演じるようになるほどテニミュが続いている歴史を感じられて感動したので殊更なんでクズ顧問やらせた?

*2:ここで言う「ピンスポット」は実際の照明のことではなく、「ピックアップ」や「フィーチャー」と同義語と思ってほしい