15年前の夏、15年目の夏

その頃私は不登校児だった。理由は友達と喧嘩したところに体調を崩して学校を休んでしまい、顔は合わせづらいわ技術の授業で目覚まし時計を作っていた遅れを取り戻すのも億劫になるわで、そのまま学校へ行かなくなった。なんともお粗末な理由である。

中学生の自意識というのはなかなかに繊細で、学校へ通っていなかった私の自意識は被害妄想の方へ寄っていった。近所に出掛けられないのだ。知り合いに遭って後ろ指を指されやしないか。ロクに学校にも行かないで。なんて惨めで汚らしい子なのかしら。若干の醜形恐怖もあり、擦れ違う人みんなが私に対して負の視線を投げ付けているような気がした。ただしこれは知人や近所の人に限定されるもので、私のことを知らない人ばかりの所には出掛けられた。だから両親は、時折車で2,30分かかる、今で言うところのショッピングモールに近い複合型巨大スーパーまで買い物に行ってくれた。私を外出させるために。

この頃の話し相手といったら家族以外は教育センターの先生か小児科の臨床心理士しかおらず、しかしいずれにも心を開いていたので、こんなんわざわざカウンセラーに話すことか?というようなくだらない趣味の話をしたり、たまには真面目に自分の話をして泣いたりしていた。当時はオープンなTwitterも無ければクローズドなmixiも無く、オタクが「個」として交流するには誰かしらが絵や文などのコンテンツを用意して個人サイトを開く他なかった。私もたまに夢小説を書いていたが、サイトを開設することもなければ余所のBBSに書き込むこともないただの読み専であった。家族共有のPCではブックマークの数も制限されてしまい、ブラウザに「お気に入り」登録していた指折りのサイト以外は、毎回サーチサイトから飛んでいた。その指折りのサイトのひとつでキリ番を踏んだ。初めての出来事だった。

 


メールを送るのも初めてだったのでそれはもう緊張した。悩んだ挙句キリ番のリクエストキャラを一人に絞れず「千石と芥川のどちらかお好きな方で書いてください」みたいに送ったところ、最終的に管理人さんは両方のお話を書いてくれた。これをネ申と言わずしてなんと言おうか。お礼と感想のメールを送って終わりかと思いきや、数日経って返信が届いた。こちらから切り上げるのも失礼かと思い数日置いて返事を送ると、また一週間後ぐらいにメールが送られてきた。こうして私とAさん(仮名)のメール文通が始まった。歳の近い人間との(対面ではないにせよ)久し振りの交流である。Aさんは私の3つ上の高校生で、偶然にもAさんも学校に行っていなかった。彼女が不登校になった理由は確か、バリバリ体育会系年功序列のチア部で先輩に反旗を翻して部活も辞めたけどめんどくさくなって学校に行かなくなったとかそんなだった。互いの学年が上がる時には「一緒に頑張ろうね」と励まし合ったが、結局私は学校に行けなかった。

ある日私はサイトではなくブログを開設した。Aさんにも教えた。見てもらえるか不安だったが、たまにコメントを残してくれたのでちゃんと読んでくれていた。さらにある日、珍しくジャンプを立ち読みした単行本派の私は「ミュージカルテニスの王子様」の存在を知った。今夏上演するのが関東大会の氷帝戦。芥川を経由して忍足そして跡部と、初めて学校単位で好きになったところの試合だった。ミュージカルなんてあったんだ、しかも氷帝戦、行ってみたいなあと呟くようにブログを書いた。

数日後、Aさんから送られて来たメールには「ブログ読みました。もしよかったらテニミュに一緒に行きませんか? チケットは私が取ります」とお誘いの言葉が並べられていた。驚いた。まさか誘われるとは微塵も思っていなかった。相変わらず近所を出歩くのは恐怖でしかなかったが、夏休みだし遠出なら関係無い。テニスの王子様にハマったタイミング的に庭球祭などには参加していないので、もし行くことになったらこれが初めてのイベントになる。とりあえず親に相談した。テニミュに行きたいんだけど……。親からすれば「テニミュ!?なんだそれ!?」であり、私もつい最近知ったんだけどテニプリのミュージカルがあってね……と説明した。最初の答えはNOだった。今でもこの判断を下した父親はかなりまともだったと思う。「インターネットで知り合った人間が本当に自分で語る通りの高校生のお姉さんだとは限らないだろう」。でも女の子の写真上げてたし……*1と言えば「そんなの何処からでも拾ってこれる」。御尤もだ。提案を却下され、廊下でしょんぼりと項垂れる私に母は「テニミュ、行きたい?」と助け舟を出してくれた。折角誘ってもらったんだし行きたい。「まだ返事してない?」してない。でもチケットのこともあるから早くしないと。「じゃあ今親と相談してるからもう少し待ってくれませんかって送りなさい」。

父を説得してくれたのは母だった。母からすれば学校にも行かず、ずっと自発的に家から出ることがなかった娘が自分から出掛けたい、人に会いたいと思ったのは偉大なことだったのだろう。遂に父からは「母が本当に高校生の女の子が来るのを見届けて、万が一想定外の人物が現れた時に保護できるなら行ってもいい」との許しが出た。こうして私はテニミュを観に行くことになった。

それから私の巡回サイト一覧に、テニミュ公式サイトが加わった。公演前の期間に更新されるCLOSE UP(座談会)が楽しみで仕方なかった。家族やカウンセラー以外の人間と会うのが久し振りすぎて、先述の巨大スーパーまで行き、テニミュに着ていく服を買ってもらった。当時はオタクのカラーギャング的意識も薄く、緑の三段レースのキャミソールと白いカーディガンのセットにジーパン(ジーンズなどという小洒落た物ではない)を選んだ。氷帝のオタクだったのに水色のみの字もない。

観劇日の前日、私は予行練習をした。実際に家からバスと電車を乗り継いで、カンカン照りの下を帽子も被らず、青々とした木々と蝉の声の中を突っ切って日本青年館まで辿り着いた。明日ここでテニミュを観るのかと、茶色いレンガタイルの建物を見上げた。ルート確認という目的を果たしたので、特に寄り道もせずに帰った。母はこの日のことを、観劇当日に駅まで着いていったことよりも思い出深いと言っていた。私が一人で電車に乗ったのはこれが初めてだったらしい。

15年前の今日、駅に現れたのはツイッターで何度も話しているとおり、星元裕月似のめちゃくちゃ可愛いお姉さんだった。おまけに声も最近話題の松本まりかを少しハスキーにした感じと来たもんだ。漫画の描写に「花を背負う」なんてものがあるが、背景にパンジーのような小ぶりで可愛らしい花がいっぱい見えた人物は未だに彼女だけだ。

母はAさんが本当に高校生ぐらいの女の子であることを確認して、まだ幼い弟と一緒に後楽園ゆうえんちへ行った。私たちは駅の近くのプロントでお茶をしてから会場へ行き、物販を買い、テニミュを観て、Aさんは千石役の和田さんへファンレターを出し、出待ちをして(※当時は公式による出待ちが行なわれていた)、モスバーガーでご飯を食べ、蒸し暑い夜の森の中を二人で迷子になり、最後に駅で母に引き渡されて帰った。楽しかったなあ、Aさん明日のチケット1枚余らせてるんだって、行きたいなあ、と目を輝かせる私に対して、後楽園からの帰り道で迷子になってへとへとの母は「明日も送って迎えに行くなんて無理……」と総武線の座席でぐったりと伸びていた。

 


数日後だったかその前だったかは忘れたが、夏休み中に学校から電話がかかってきた。相手はその年に赴任してきたばかりの養護教諭のおばさんだった。テストだけは毎回保健室で受けていたので、一応顔は知っていた。「夏休みだったら部活動の生徒はいるけど、普段よりも他の生徒に遭うことはないと思いますよ。よかったらお昼ご飯でも食べながらお話しませんか」 あまり乗り気ではなかった覚えがあるが、母が「プロントでお洒落なサンドイッチ買ってきてあげるから、行ってきたら」と言うので行くことにした。久々に袖を通した紺色のセーラー服は、太陽光を吸った所為か重たかった。

保健室の蛍光灯は真昼の雲一つない青空にすっかり負けており、点いているのになんとなく薄暗かった。私と先生の他には誰も居らず、校庭で野球をする男子たちの声が遠くに聞こえるだけだった。プロントのビニールを破きながら、最近あったこととしてテニミュの話をした。その時の私にはそれぐらいしか出来る話題が無かった。ところがこれがびっくりするほど楽しかった。テニミュを観た当日だってテニミュは楽しかったしAさんは優しくて可愛いお姉さんだったし、でもめちゃくちゃ緊張した。オンで知り合った人間とオフで会うのは初めてだったし、思春期の女子らしく年上の同性への憧れを拗らせていた私は、Aさんの前ではそれは生娘のようになってしまいちっとも上手く喋れなかった。養護教諭の前ではそうなることもなく、だってどうせ不登校児だし何も取り繕う必要がないのだ、具が全然詰まっていないサンドイッチを食べながら話すだけ話した。家に籠ってばかりの私に、人と話す楽しさを思い出させてくれたのはテニミュだった。帰りも空は眩しくて、熱気に中てられて暑苦しい制服も帰ってすぐ脱いだ。

私は、夏休み明けから学校――保健室に通うことにした。

と言っても人には遭いたくないし歪んだ自意識が治った訳でもないので、2,3時間目の途中ぐらいに顔を出し、給食が始まり生徒が蠢き出す前にそそくさ帰るという体たらくだった。多分2時間も滞在していない。しかも登校するのは毎日ではなく週に2,3日。それでもテスト以外まったく通学しなかった頃に比べれば大きな進歩だった。その上私は「保健室」に居た。保健室には奥の方に保健室登校児用のスペースがあり、私が教室に通っていた頃からとある女の子が居た。そこは一人分しか空きがなく、いや二人分あったとしても気まずいので、私はどうしたって普通の生徒が出入りする「保健室」のソファにどかんと座るしかなかったのだ。これは結果として功を奏した。

もうどうしたってそこに居るしかないので、怪我人が来ようが病人が来ようが私は堂々と座っていた。保健室登校であることを逆手にとって、わざわざ注意する人もいないだろうとセーラー服の丈を短くしてもらった。母に。同学年の男子が怪我した一人に連れ立って来る時にはここぞとばかりに「早く帰れ」オーラを出した*2。それにみんな私が思っているほど、私のことをなんとも思っていなかった。同じクラスのスクールカースト上位の子たちに「おはよう」と話しかけられた時はびっくりした。「教室、来ないの?」うん、まだちょっと……。「そっか……」「じゃあね」「またね」 こんなもんかと呆気に取られた。小学校で同じクラスだった子が頭痛を訴えて休みに来た時は、1時間ぐらい元気にぺちゃくちゃ喋って結局その子は休まず教室へ戻った。月日が経てば先生もこちらの扱いに慣れてきて、「あなたそこ邪魔! 怪我した人が座るんだからどいて!」とだいぶ雑になった。仕方ないし暇だしで先生のデスクに腰掛けて勝手に抽斗を開けたところ、私が保健室登校を始めたばかりの頃に渡した、テニミュ公式サイトのキャスト一覧ページを印刷した紙が出てきた。こんなの取っておいてどうするんだと恥ずかしくなったが、ちょっと泣きそうにもなった。当時のブログのお陰で同い年のテニミュ仲間も出来た。卒業するまで教室へ戻る日は来なかったけれど、テニスの王子様、もといテニミュのお陰で、少しは楽しい中学生活になった。

 

 

 

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テニモンの皆さんはお分かりだろうがこのポーチは今年のグッズではない

漫画やテレビやパソコンの中だけだった私の世界を広げてくれたのはテニミュだった。外に出る楽しさ、人と会う喜び。そんなテニミュもこの状況下で色んな自粛を余儀なくされ、まさに今日発表された3rdシーズンの締め括りは家で楽しむコンテンツになってしまった。まるで彼らが紙や画面の中へと戻ってしまったようだ。

https://www.tennimu.com/news/d1101

なあなあにせずしっかりとしたゴールテープを用意してくれただけでも充分有難いのだが、やっぱり外に出たかった。みんなで一緒に3rdの終わりを見届けたかった。飽きるほど観てきた筈のペンライトの海がこんなに恋しくなるなんて。テニミュは私を外へ連れ出してくれたけど、私は大事な子のひとりだって外に連れ出せやしない。だからせめて、あの日の私が外に出られたように、いつかみんなが心置きなく外に出られる日まで、テニミュには長生きしてほしい。

 

 

*1:Aさんは日記にNARUTO我愛羅のメイクをした自分の写真を顔バレしない程度に載せたことがあった

*2:連れションは思春期の女子の文化だなんて言われているが、中学生男子(特に2,3年生)だって連れ保健室をするということを保健室登校で学んだ私は二次創作に活かした