推しは私を救う(文章のリハビリ)

文章が書けなくなった。先日観に行った舞台の感想を、そこに居ない戦極凌馬の観点から書こうとsimplenoteを立ち上げて、書き出しを100字ぐらい打ち込んだところで指が止まった。書けない。ツイッターで壁打ちはできたのに、ちゃんとした言葉で纏めようとすると、できなかった。

 

 

 

年明けに体調を崩してから何もかもが駄目になった。ツイッターに浮上する度「皆さんお元気ですか? 私は元気じゃないです」と呟いていたのはまったくその通りで(そのうち数個は消したけど)、身体の具合が悪いことによるストレスが雪崩のように更なるストレスを呼び、過程をすっ飛ばすとついに先日産業医から出勤NGを喰らった私は晴れてメンヘラの仲間入りとなった。薬局でもらった初めて目にする名前の薬をググると、小説やネットで何度か目にしたことのある名前が出てきた。メンヘラの薬だ!!!と興奮した。

 

そして冒頭に戻る。文章が書けなくなった。頭の中に思い描く感想はあるのに、私は戦極凌馬の罪と罰について書かなきゃいけないのに、140字の散文の群れしか書けなくなっていた。他のこともそうだ。「推し」の定義、顔が好きな若手俳優、友達を真似る友達の話、いつか書いてネットの海に放流したいと思っていたことは山ほどあった筈なのに、私の指はキーボードの上で硬直する。まるで合わない薬を飲んだ翌朝のように。

 

 

 

文章が書けなくなる、すなわち生産性がなくなることであり、その結果私の脳内から千石清純が去ってしまうという弊害も起こった。千石清純は概念なので、紙の中にいる時もあれば画面の向こうや舞台の上にいる時もある。無論私の脳内にいる時もある。「我思う、故に千石清純あり」なので、私の脳のシナプスが変な接合を起こした結果愛くるしいペンギンの姿をして出てくることもあるし、反対に私の脳内から去ったとしても存在そのものが消える訳ではない。しかし私の脳内からは去ってしまった。毎朝限界夢女の隣に寄り添い「今日も可愛いよ😘👉」という言葉で全世界の女の子を肯定し、支離滅裂な発言をした時にはお目目を虚無のような黒色にして「そうだね◉Θ◉」と適当に相槌を打ち(しかし否定はしない)、寝る前には「今日も一日お疲れ様🌠おやすみ」という言葉で全世界の女の子の瞼にビロードのカーテンを降ろす千石清純が、去ってしまった。これは文章を書けなくなったことを自覚するよりも前の話であり、また私が自身のメンタルが駄目になっていることを悟ったのもこの時だった。非オタクからすれば脳内に何かが存在すること自体が異常かもしれないが、人生の半分以上を夢女として過ごしてきた私にとってはそれが正常であり、「生産」という生きるに於いて重要な作業のひとつの代替でもあった。そして文章も、知らず知らずのうちに書けなくなってしまった。

 

 

 

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急遽決まった推しともう一人の俳優によるトークイベント。今回も手紙のことなんて考えていなかった。それどころか普段ならこの手のイベントには参加しない私だが、休職中で心身ともに変なところで余裕ができていた私はなんとなく行ってみることにした。そういえば以前あげようとした消耗品があったがタイミングを失っていたことを思い出し、今回あげようとわざわざ銀座まで赴いてプレゼント(?)を買った。物をあげるということは、それに添える文章を書かなければならない。手紙にしろブログにしろ、私は必ず下書きをしておおよその字数や全体の流れを確認しているが、そこまでする気力はやはり無かった。まあ何をあげるかについての説明文程度ならと思い筆を取り、いつもどおりに序文を書き始める。レターセットはFGOの時に買ったものだが結局1公演(+ライビュ)しか観に行けずお蔵入りになっていたことを記し、そのままFGOの感想も続ける。次の舞台も楽しみにしている旨、そして今回贈ったものの説明をして締めたところで、手紙はちょうど2枚の長さに達していた。手紙が完成した。文章が書けた。このことは舞台版鎧武の感想が書けなかった私を大いに励ました。推しはよく「皆さんの背中を押せたら」ということをブログなどで伝えているが、正直こっちは好き勝手に推しの仕事を楽しんでいる、いわば消費しているだけなので背中を押すも何もないのではと常々思っていた。しかし私は推しのお陰で救われたのだ。初めて「この人に手紙を書きたい」と思わせてくれた役者は、私のふにゃふにゃになったペンにもう一度芯を与えてくれた。わたし、文章、書けるじゃん。

 

 

 

このことを推しに伝える気は無いけれど、見えないお礼も込めて、今日はこれから誕生日プレゼントを買いに行く予定です。