ガチ恋なんてするもんじゃない

※これを書いた私がガチ恋しているというわけではない

 

そもそも「ガチ恋」の定義とは何ぞや?というところから話し始めると際限が無いので、ここでは私の思うガチ恋について話すとする。あと同義語もしくは類義語と思われる「リア恋」とか「本気愛」という単語については、触れる機会が少ないのでここでは割愛する


とあるオタクが「私(ある若手俳優に対して)ガチ恋なんです~w」と自称していたが、話を読み進めていくとどうにもそれが「ガチ恋なアタシ」「○○なアタシ」というオタクにありがちなナルシシズムにしか感じられなかった。それにガチ恋って私の知る限りではそんなキレイでカッコいいもんじゃないし、少なくともその話の中ではそのオタクが対象に対して「ガチ恋」であるとは一切感じられなかった。もしかしたら実際に会って根掘り葉掘り聞いてみたらもっと激しいエピソードがぼろぼろ出てくるのかもしれないが、あの文章を読んだ限りでは若手俳優へのガチ恋ではなくどちらかと言えばその俳優が出演している作品ないし登場人物に対する「夢(夢小説)」でしかなかったし、既に恋人どころか一生を添い遂げる覚悟をした男性と同じ籍にいる時点で「ガチで恋し」ているとは言えない。100歩譲って対象が非実在や創作上の人物なら兎も角、旦那がいるのにガチ恋、それも実在の人物に対して自らもそうであると名乗るのは、同じ俳優にガチ恋している人たちに対して失礼極まりないとすら思う。

 

ガチ恋というのを手っ取り早く説明するならこちらのブログ http://j-th0610.jellybean.jp/?p=283 の一文「アイドルにガチで恋しちゃうヲタク」に尽きるだろうし、私自身もガチ恋という言葉を使う時は「対象に冗談抜きで恋愛感情を抱いているファンないしオタク」という意味合いで使う。ただネットスラングというのはあっという間に意外な意味合いや緩いニュアンスで広がるもので、とりあえずのノリで自分のことを「ガチ恋」と表わす人も少なくないだろうし、ガチ恋って言ってる(或いは言ってた)私の周りのオタクも本当に「ガチで恋し」てるのか恋してたのか分からないし、するとじゃあ結局本当の「ガチ恋」って何なの?ということになってしまう。

 

これまで私が知り合ってきたオタクの中には2人だけ、あれは間違い無く「ガチ恋」だったと言える人がいる。一人は私がテニミュを観るようになって間も無い頃に知り合った、今で言うところの「同担」のオタクだ。ここでちょっとおかしくないかと思う人は恐らくガチ恋の生態みたいなものを理解している人だろう。どうしてガチ恋のオタクが同担と仲良くなれたのか、理由は単純に私たちが知り合ったのが彼女がガチ恋を拗らせる前であり、彼女がガチ恋を拗らせた後も私はガチ恋をしていない普通の一ファンに過ぎなかったからだ。その後私の推しは途中で彼女のガチ恋対象から他のキャストへと変わったので、彼女からすれば有難い話だったろう。因みに推しが被ったままだった別の友人(私とは顔見知り程度)は、その友人の方が推しとの年齢が近いという嫉妬諸々も含め暫くして疎遠になった模様。

彼女は兎に角激しかった。行ったイベントで毎回のように手紙を出すのは勿論のこと、義務教育を終えたばかりの年齢にして推しへのプレゼント(衣類含む)は当たり前、出待ち入待ちどころか稽古場と思われる場所の情報を掴めば周辺で張り込み(よいこのみんなは真似しちゃ駄目だぞ、マナーを守って節度あるオタクライフを心掛けようね)、そんな感じだったので「またにちゃんに晒された~」と言ってくることもままあった。そんな努力(正しいかはさて置き)の甲斐とちょっとしたツテのお陰で、彼女は割と早い段階で彼からの認知を貰っていたし、一度だけ楽屋裏か何処かで2ショットを撮ってもらい、その写真を焼き増ししまくって色んな人にあげていた。私も貰った。写真の中の彼女はすごくいい笑顔だったし、写真を渡してくる目の前の彼女も笑顔だったし、彼女が嬉しそうだったので私も喜んだし楽屋(?)とかすげー!と他人事ながらに興奮した。

彼女の場合は早々にガチ恋相手からの確実な「認知」を貰っていたので、「ガチで恋す」るという点に於いてはある意味他のオタクよりも現実味があった。だからこそ当時15、6歳の夢見る少女の恋心はヒートアップしてしまったし、元々過激な性分だった彼女を更に燃え上がらせる一因になってしまったんだと今になって思う。そんな彼女も数年前にみくしぃを覗いた時にはぐらん・・・だかおるど・・・だかの熱狂的ファンになって同じようなギャルっぽい子たちとつるんでいた。今の彼女が当時の自分を振り返ったら何を思うんだろうか。

 

ガチ恋というのは読んで字の如く相手にガチで恋をしているので、自分を知ってもらいたいとかあわよくば仲良くなりたい付き合いたいなんて思うのがオーソドックスな「ガチ恋」の形だろう。しかし私が知り合ったもう一人のガチ恋は「頼むから私のことを認知しないでくれ」タイプのガチ恋だった。それってガチ恋じゃなくね?と思う人もいるかもしれないけどあれも確かにガチ恋だった。彼女は相互フォロワーなのであまり多くは語らないが、初めて会ったのがイベントとイベントの間の時間でその時の発言がこんな内容だった。「私この後前から3列目なんだけど普通に(自分の)顔がステージから見える距離だしホント無理、だってこの距離でガン見したら「あの人さっきから俺の方見てる」ってバレるしこいつ俺のファンなんだって思われたくない、私は推しのことを見たいけど推しは私のこと見ないでほしい……」 彼女の言う「ファンだって思われたくない」というのは、典型的な「ファンだってバレたら一線引かれて彼女になんて絶対になれない!」というのとは大きく異なっていた。彼女は常日頃から自分の顔を呪っていたので単純に自分の顔を見られたくなかったのもあるだろうし、「こんなんが自分のファンだと思われたくない」とかそれ以外にも「好きだからこそ会いたくない」心理みたいなものがあったのかもしれない。違ったりそもそもお前私の話やめろとかあったらLINEでもなんでもいいから教えてね(本人宛)。彼女に関するエピソードで個人的に一番面白かったのは、当時必死だった本人には申し訳ないが、戦々恐々でイベントに申し込んだら参加確定後に2ショット撮影の存在を明かされ「そんなの知ってたら申し込んでない……」と本気でイベントへの参加を悩んでいたことだ。当時ツイッター読んでめっちゃ笑った。しかしその後彼女はイベントに向けて体重を絞ったりボディケアも欠かさずありとあらゆるコンディションを整え、服装もフォロワーに相談しまくり、うっかり肌を引っ掻いて跡になってしまったことに悶え苦しみ、私個人としてはイベント当日の感想よりそれまでの道程がハチャメチャに面白かったのでその後どうなったかはあまり覚えていない。彼女も今はガチ恋ではないが、時々彼に対して「相変わらず顔がタイプ過ぎる」と呟いている。尤も好きになったのは何も顔だけが理由ではないと思うが。

 

前者の彼女も後者の彼女も、私の稚拙な文章だけではガチ恋感が伝わってこないかもしれないが、ここには書き起こせない普段の会話やツイートも含めるとやっぱり彼女らは「ガチで恋し」ていた。推しのために努力したり自己研鑚したり、という書き方をするとキレイなものに見えるし実際そういうところにだけ焦点を当てれば普通の恋と同じように美しいものに見える。しかし正直なところ私はガチ恋というのは、対象から遠いからこそもっと必死でみっともない、或いは浅ましくてどろどろしたものだと思っている。後者の顔を覚えられたくない彼女は傍から見る分にはあまりその気は無かったが、前者の彼女は「同担拒否」の気が顕著だった。私は同担拒否のオタクは嫌いとか許せないとか以前に「理解できない」派閥だったのだけれど、考えてみれば好きな人が同じ恋のライバル、それも友人とかではないまったくもって赤の他人と仲良くしろという方が無茶な話だ。しかし若手俳優然りじやにいず然り他アイドル然り、「ガチ恋」というのは「普通であればガチで恋をしないような対象」に対してこそ発生するものであり、またそれは多くの場合「趣味は他者と共有してこそなんぼ」な側面の強いオタク的ジャンルやコミュニティから近い所に存在する。なのでその対象を一ファンという目線から愛でて(推して)いる人間からすれば「何故同じものを「好き」という気持ちを共有するのが嫌なのか」という風に思われてしまうのもまたごく自然なことだ。一般的なオタクからすれば「ガチ恋」は「理解できない」のだ。悲しい哉その恋心はみっともない(ものと思われてしまう)。

 

ガチ恋をしている人間のすべてが同担拒否という訳ではないだろうけれども、同担拒否はガチ恋の始まりだと私は思う。同担拒否にも「私の目の届かないところで推してる分には構わない」から「ありとあらゆる同担はこの世から消えろ」まで色々あると思うが、結局のところどれも独占欲の表われに過ぎない。○○くんを見ているのは自分だけでいいし、○○くんの名前を呼ぶのも自分だけでいい。だとか、○○くんが自分だけのものじゃないのは心の何処かで分かっているけど、切なくなるから同担はお断りデス。だとか、まあ大体こんな感じなのだ。多分。というか少し前の文章をよく読んでもらうと分かるとおり、同担拒否が理解できない派閥「だった」私は社会人になってから同担拒否の気持ちを理解できるようになってしまった。幸か不幸か対象は実在の人物ではないのだが、実在の人物が演じているため実在の人物として存在していないという訳でもないが演じている本人を推す気も無いしそもそも話の中で彼は死んだけど同じ顔をした人間は生きているが推す気は(無限ループ)という、非常に困った事態に陥っている。これがガチ恋なのかは分からないし、出来ればガチ恋でなければいいとさえ思う。やはり幸か不幸か対象が実在の人物ではない、存在がふんわりした創作上の人物であるために、「ガチ恋」の定義もふんわりしたものになる(と私は考えている)。だからこの場合は私が「ガチ恋」だと言ったらガチ恋だし、「ガチ恋ではない」と言ったらガチ恋ではなくなるので、これはガチ恋ではない。よし。同様に一番初めの例に挙げた女性が自らのガチ恋対象として挙げたのが、元々は2次元である役柄の方であったなら、私も「この人がガチ恋って言うならガチ恋なのかもしれない、夫いるから浮気になるけど」と思うだけだったろう。

 

ガチ恋という単語はざっとググった限りではドルオタ界隈が発祥、もしくはその周辺でよく使われているのが他のオタク界隈に広がった単語のようだ。対象が実在の人物の文化だからこそ「ガチ恋」という単語が生まれたんだろうし、それは決して賛美の言葉ではなく「高嶺の花に恋する身の程知らずな奴」という軽侮の意味合いの方が強い。しかし私は何かに熱心で一生懸命なオタク然り人間然りが好きなので、ガチ恋が如何に愚かな行為や感情として見られるものであっても、周囲にそんな人間が居たら応援したくなってしまうし(それが本当に本人のためになるかはさて置き)、その一心不乱で必死な人たちの足元にも及ばないような人間が自分のオタク度合いや何らかのアピールやナルシシズムのために「ガチ恋なんです~w」なんて抜かしてるのが、許せないのだ。